成長

 枕元でスマートフォンのアラームが鳴り響き、志穂は目を覚ました。


 アラームを止めて、上体を起こす。自分の寝ている布団以外にロクなものがない殺風景な部屋を見渡し、志穂は昨夜『ライジング・サン』のスタジオ二階の仮眠室で眠ったことを思い出した。頭も身体も目覚めきっていない中、大きく伸びをして全身の強張りをほぐし、起き上がって布団を畳む。


 仮眠室を出た後、志穂は一階の洗面所に向かった。顔を洗って眠気を払い、コーヒーでも飲もうとリビングに足を踏み入れる。いつも通り、ソファに座ってテレビを観ていた日出社長が、座ったまま首を曲げて志穂の方を向いた。


「おはよう」

「おはようございます」

「山田くんはまだ寝てるの?」

「分かりません」

「一緒に寝てたんじゃないの?」

「女性と二人はマズイからと、仮眠室で寝るのを避けたんです。だからリビングで寝てると思ってたんですけど、いないならオフィスとかですかね」

「今まで普通に雑魚寝してなかったっけ」


 私に告白した手前、同衾は気が引けたんでしょう。言いませんが。


「大人になったんじゃないですか」


 はぐらかし、キッチンの棚から自分のマグカップを取り出す。サーバーから温かいコーヒーを注ぐと、優しい匂いが立ち上ってきて気持ちがすっと落ち着いた。ひじかけのないシンプルな椅子に座り、背の高い食卓に左腕を乗せながら、コーヒーを飲んでテレビを観る。


「そういえば」ソファから、日出社長が志穂を見上げてきた。「A案の方はどこまで進んだの?」


 A案とB案。単純な名前だ。自分で命名したのにおかしくなってくる。


「昨夜、完成しました」

「もう?」

「今日の撮影が終わったらB案の方に注力したいので、急ピッチで進めたんです。山田くんにも頑張って貰って」

「A案だから適当に仕上げたわけじゃないよね?」

「それは実際に観て判断して頂ければと思います。少なくとも私は適当にやったつもりはないですよ。ただ――魂はこもっていませんが」


 どんな気乗りしない仕事だろうと、プロとして放送に耐えうる映像を仕上げることはできる。だが人間として映像に想いを込められるかどうかは別だ。演奏家にとって楽譜をなぞることと音を奏でることが違うように、小手先の技術では越えられない壁がそこには存在する。


 春日たちの江ノ島デートの撮影日、志穂は日出社長に「二本の映像を作る」ことを提案した。


 一本は当初のコンセプト通り、同性カップルの何気ない日常を撮った映像。もう一本はそこから大きく外れた、実際に起こったことを流せる範囲で流す映像。その二本をA案B案と名づけ、どちらを使うかは相手に任せる形で納品する。それがリスクを抑えつつ信念を曲げないため、志穂が考え出した苦肉の策だった。


 どちらかは絶対に採用されない映像を二本仕上げる労力について、志穂は気にしていなかった。正確には、山田に無理をさせることは気にしていたが、同意が取れていたので問題なかった。頑張ればいい。それだけの話だ。


 ただ日出社長に迷惑をかけることについては、志穂もふっ切れていなかった。商売相手に変な冒険心を見せれば、このビジネスはもちろん今後の関係にも影響が出かねない。だから提案をなかったことにして、A案だけで進めろというのならそれは受け入れる。志穂は日出社長にそう語り、日出社長は笑いながらこう答えた。

 

 B案だけでもいいよ。


「……すいません」


 頭を下げる。日出社長が不思議そうに、年齢の割にぱっちりした目を見開いた。


「いきなりどうしたの?」

「AでもBでもいいと言いながら、わざわざ魂がこもっていないとか足して、本音を覗かせてしまったので」

「言われなくても、どっちが本命かぐらい分かってるって」

「それはそうでしょうけど……」

「あのね、志穂ちゃん。僕は責任を取ることが仕事で、その僕が責任取るから好きにやれって言ってるの。だから余計なこと考えないで、好きにしなさい」


 頼もしい言葉を吐き、日出社長がテレビに向き直る。しかしうっとりと細められた目はテレビではなく、そのやや斜め上に向けられていた。他人には見えない思い出を、心の奥底から引き出して眺めているのが伝わる。


「僕も、昔は人の会社で志穂ちゃんみたいに働いてたんだけど」


 しわがれた声が、コーヒーの香りに乗って志穂に届く。


「会社で古株になるにつれて、だんだんと責任が重くなっていってさ。上が冒険しないから会社が成長しないとか、偉そうにしてた若い頃が恥ずかしくなったのね。そんでそれを、新人だった僕を育ててくれた昔の上司に言ったのよ。あの頃の自分は責任を取る人の大変さを考えてなかった。でも今はその甘さが分かる。成長した。そうしたら、その人はなんて言ったと思う?」


 責任を取る立場になって、責任を取る人間の大変さが分かった。かつての部下からその言葉を聞き、先達はどう思うか。


「やっと分かってくれたか、みたいな感じですか?」

「ハズレ。『そんなもんは成長じゃない!』って怒られた。若い時は若いやつの味方をして、年を取ったら年寄りの味方をする。それはずっと自分の味方をしているだけだって」


 日出社長の視線が下がった。テレビの前のローテーブルをじっと眺め、独り言のように語り続ける。


「年寄りになって年寄りの気持ちが分かるのは当たり前。年寄りになっても若い頃の気持ちを忘れないで、若い連中のために踏ん張れるようになるのが成長だ。そう説教されて、本当にその通りだと思った。だから僕は今もそれを実践しようと心がけてる。志穂ちゃんや山田くんたちが気持ちよく仕事できるよう、最後に責任を取る人間としてどっしり構えていようって」


 語りに区切りをつけるように、日出社長が大きく息を吸った。そして椅子に座る志穂を再び見上げ、気の抜けた笑顔を見せる。


「もちろん、それだって限界はあるけどね。何でもかんでも好き放題やっていいとは言わない。ただ今回は、志穂ちゃんがきちんと仁義を通した上で我も通そうとしてるのは分かるし、何より――僕は今まで、志穂ちゃんを苦しめてきたからみたいだからさ。罪滅ぼしみたいなもんだと思って、寄りかかってよ」


 ――そうなったら志穂ちゃんがどうにかしなさい。


 山田に仕事を任せるのは不安だとこぼした時、日出社長から言われた言葉を志穂は思い返す。つまり日出社長はこの仕事を通じて、山田だけではなく自分も育てるつもりだったのだろう。山田にプレイヤーとしての経験を積ませることで、併せて志穂にマネージャーとしての心構えが芽生えることを期待した。


 責任は取るからやれるだけやってみろ。確かにそういう余裕は、今までずっと持てていなかった。いつも必死で、しゃかりきになって、イライラしていた。日出社長はそんな自分をリラックスさせるために踏み込んだコミュニケーションを取り、しかしそれがびっくりするほどかみ合わず、日出社長そのものがまたイライラの原因となる悪循環に陥っていた。


 とはいえ、日出社長がどんなつもりでも関係ない。わざとでも偶然でも足を踏まれたら痛いのだ。傷つけられたら怒る権利がある。


「――私」両手を腿に乗せ、日出社長と向き合う。「ある人に、社長のコミュニケーションがセクハラじみていて困ると愚痴ったことがあるんです」


 日出社長がぎょっと目を剥いた。志穂はその過敏な反応に笑いそうになりながら、平静を装って淡々と語る。


「その人は、許せないなら許さなくていいと言い、私はその言葉に共感しました。許せない人がたくさんいたからです。有名俳優に会わせてあげると言って口説いてきた芸能事務所のマネージャー。コンセプトを二転三転させる自分を棚に上げて『女は呑み込みが悪い』と怒鳴ってきたネットのインフルエンサー。まだ新人でアシスタントをやっていた頃、打ち合わせの食事会で若い女なのにサラダを取り分けなかったことを理由にアシスタント変更を打診された時は、クライアントをぶん殴ってそのまま会社を辞めようかと思いました。今でもそいつは許していませんし、これからも許す気はありません。そんな許せない相手が、両手両足の指を使っても数えきれないほど、私には存在します」


 忘れた方が楽。許した方が健全。そんなことは分かっている。分かっていても忘れられないし許せないことを、他人からとやかく言われる筋合いはない。誰を許さないかは自分で決める。


 誰を許すかを、自分で決めるように。


「でも――社長は許します。次は分かりませんけど」


 優しく微笑む。緊張に強張っていた日出社長の表情が、目に見えてほっと弛んだ。そして肩からも力を抜き、しみじみと嚙みしめるように呟く。


「苦労してるんだねえ」

「社長ほどではないです」

「そう言ってくれると助かるよ」


 リビングのドアの向こうから、誰かが階段を下りて来る音が聞こえた。山田。会話の終わりを察した日出社長が、穏やかに締めの言葉を告げる。


「頑張ってね」


 ドアが開く。志穂は大きく首を縦に振った。


「はい」

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