Chapter9:100日目。そして

取材映像⑧

 ――よし、動いた。


 カメラのマイクが、若い女の声を拾った。画面には横に長いソファと、その中央に座る若い男が映っている。眉尻を下げてどこか不安げな顔をしている男が、背中を前に傾けて話しかけてきた。


「重そうですけど、大丈夫ですか?」


 ――大丈夫ですよ。これでも新人の頃はカメラマンもやっていましたから。


 女が答えた次の瞬間、画面がぐらりと揺れた。ピントが男からズレ、すぐに復帰する。男がじっとりと湿っぽい視線をカメラに送った。


「僕は別に二人いてもいいですよ」


 ――でも一人の方が圧は少ないでしょう?


「それはそうですけど、そのせいでいい画が撮れなかったら本末転倒では?」


 ――そんなことはないですよ。一番大事なのは、言葉です。


 有無を言わせぬ口調で、女がはっきりと言い切った。


 ――表情や仕草も重要といえば重要ですが、それを綺麗に撮ろうとすることが言葉をほんの少しでも邪魔するならば、私は切り捨てていいと思っています。それに。


 しばしの沈黙。そして、再開。


 ――私は一対一で春日さんと話がしたいんです。一人の人間として、一人の人間と真正面から向き合いたい。本当にやりたいのは撮影ではなく対話なんです。


「なら、いっそカメラ抜きでもいいのでは?」


 ――撮影しなくていいわけでもありませんから。タレントさんならともかく、春日さんは一回語ったことをもう一回カメラの前で語ってくれと言われても、力のある言葉は放てないでしょう?


「確かに」


 男が頷いた。そして前のめりになっていた体勢を戻す。


「茅野さん、変わりましたね」


 ――そうですか?


「映像より言葉が大事というのはともかく、やりたいのは撮影ではなく対話だというのは、出会った頃の茅野さんだったら言わなかった気がします。見当違いなら申し訳ないですが」


 ――いえ。それは私もそうだと思います。仕事に私情を挟んでいるようなものですから、昔の私なら後ろめたくて隠したでしょう。


 暗い声。だけどそれはすぐ、朗らかで明るい響きを帯びる。


 ――ただ、気づいたんです。人のやることに感情を乗せないのは不可能だって。どう足掻いたって仕事に私情は挟まれる。だったら、私情を挟んでもいいですかと許可を取ってやればいい。そう思いました。


 女の言葉を聞き、ソファに座っている男が小さく笑った。そしてカメラに向かって穏やかに声をかける。


「僕は、今の茅野さんの方が好きですね」


 ――ありがとうございます。ところで、そろそろいいですか?


「はい。準備は出来ています」


 ――分かりました。では、よろしくお願いします。


 合図と共に、男が咳払いをした。そして両手を腿に乗せて胸を張る。男はそのまま上体をゆっくりと前に倒し、左巻きのつむじをカメラに見せつけた。


「申し訳ありません」


 頭が上がる。想いの込められた瞳が、画面の中で力強く輝く。


「僕、春日佑馬と長谷川樹は、このドキュメンタリーの撮影が始まった時、既に交際関係にはありませんでした」

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