どこにでもいる普通の恋人
若い男女が、小道の先から歩いてきた。
男二人で恋愛スポットに向かう自分たちをどう見ているのか、佑馬はその表情を観察する。しかし男女は佑馬たちなど視界にも入っていないといった風に、仲良く会話しながら素知らぬ顔ですれ違っていった。安堵と共に、失望を覚える。自分で自分を異常と捉え、不必要に他人を悪く見てしまった自分に。
小道を抜けると、海を臨むように造られたコンクリートの高台、「恋人の丘」に辿り着く。丘と呼ぶにはずいぶんと人工的だが、水平線まで見渡せる展望のおかげで風情のなさは感じない。ただ、高台を囲む背の低いフェンスに南京錠がびっしりと取りつけられているせいで、情緒よりも先に欲望を感じて気圧される面はある。
海風が佑馬の頬を撫でた。佑馬は深呼吸をしてから、鐘を釣り下げている青緑色の構造物に歩み寄る。一年前、「龍恋の鐘」と名づけられたこの鐘を鳴らし、自分と樹の名前を書いた南京錠をフェンスに取りつけた。そうすれば永遠の愛が手に入ることになっていたから――ではない。恋人らしい旅の思い出を残せれば何でも良かった。何でも。
「相変わらず、すげえな」
南京錠まみれのフェンスを見て、樹が素直な感想を呟いた。そしてフェンスの前にしゃがみ、南京錠に書かれている名前を確認し始める。
「俺ら、どの辺につけたっけ」
「忘れた。そもそも残ってないんじゃないか。定期的に交換してるだろうし、一年はもたないだろ」
「そっか」
樹が立ち上がった。そしてフェンスの上部に手を乗せて海を眺める。佑馬が隣に立っても微動だにしない。陽光に照らされたブラウンの髪がキラキラと輝き、落ち着いた佇まいと合わさってどこか神秘的な雰囲気を醸し出している
「もう、一年経つんだな」
横顔に話しかける。樹は、横顔のまま答えた。
「そうだな」
「あの時は、今こんなことになるなんて全く考えてなかったよな」
「当たり前だろ。考えてたらこんなところ来ねえって」
「そうかな。恋人とぎくしゃくして、どうにか修復したくて、既成事実を作りに来るやつだっていると思うぞ。形式を先に作れば中身は後からついてくる。そういう発想をする人間はきっと珍しくない」
横顔から目を逸らす。樹と同じように、海に向かって呟きをこぼす。
「俺が、そうだからな」
背後から、男女の話し声が聞こえた。年齢も背格好も分からない。何なら声質が低音と高音なだけで、もしかしたら男女ですらないかもしれない。ただ、恋人同士であることは分かる。そういう会話が雑音として耳に届く。
「ドキュメンタリーの話を受けた理由が、まさにそれだ。応援してくれる人たちのためとか、苦しんでいる仲間たちのためとか綺麗な言葉で飾り立てて、本音は違う。カメラの前で理想のカップルのように振る舞えば、カメラの外で理想のカップルになれると考えただけだ。浅はかだよな」
カランカラン。鐘が鳴った。鐘を鳴らした恋人たちが言葉を交わす。
「パートナーシップの宣誓も、お前を俺の実家に連れて行ったのも、一年前ここに来たのも同じ。そういう恋人になりたいから、そういう恋人のように振る舞った。俺はいつもお前の想いより、俺の理想を優先した」
カシャ。フェンスが揺れた。南京錠をつけた恋人たちが言葉を交わす。
「俺はお前を人間扱いしてないんだよ。お前に自我があって、意思があって、理想があることを認めていないんだ。そんな俺に嫌気がさすのは当然だ。だから――」
「お前のためなら、無理できた」
雑音が消えた。
顔も知らない恋人たちの会話が、海風が木々を揺らす葉擦れの音が、佑馬の耳に届かなくなった。佑馬はゆっくりと樹の方を向く。雑音をかき消した声の強さから察していた通り、樹はいつの間にか佑馬の方を向いていた。
「だから去年ここに来たし、鐘も鳴らしたし、南京錠もつけた。お前の実家に行ったのも、パートナーシップの宣誓をしたのもそうだ。お前は俺の自我を認めてないって言ったけど、断らなかった判断も含めて俺の自我なんだよ。長谷川樹はノーを言えないから、代わりに自分が全部考えてやらなきゃならないなんて方がよほど自我を認めてない。それは大人と子どもの関係だ」
――許せるなら、許してもいいだろ。
いつかの樹の言葉を思い出す。大事なのは結果ではなく、自分で判断すること。そしてその判断に他人が口を挟まないこと。
「そんで、今までそうやって無理できたから、ドキュメンタリーもお前のために無理できると思った。お前と同じように、これをきっかけに関係が修復することだってあるんじゃないかとも思った。でもすぐに気づいたんだ。これはお前のための無理じゃない。顔も名前も知らない赤の他人のための無理だって」
――そうやって、ずっと他人のために生きていくつもりなのか?
講演会の打ち上げの帰りに、駅のホームでかけられた言葉。あの時、自分は何と答えたのか、思い返してすぐに気づく。何も答えていない。
「俺だって、俺らみたいな人間は差別されてもいいと思ってるわけじゃない。でもそいつらのことを考えて、応援されるために仲の良いフリをするとか、同情されるためにやれることを隠すとか、そういう風に自分を曲げる気は起きないんだ。俺らのインタビュー動画をネタにしてたやつらのためなんて論外。お前があいつらに感謝してるの、意味わかんねえと思ってたし」
違う。そうじゃない。俺はただ、お前と――
「なのにお前は『他はどうでもいいからドキュメンタリーだけは真面目にやれ』って感じで、俺の中で色々と食い違って来た。だんだん『お前のため』の無理もしたくないと思うようになった。いざ撮影が始まったらさらにそれが強くなって、しまいには爆発して、今日に至るってわけだ」
樹がおどけるように肩をすくめた。そして再び海に視線を戻す。
「まあでも、俺も引き受けたんだから、そういうのはちゃんと俺がお前に話すべきなんだよ。それをしないで勝手にストレス溜めたのは俺。だからお前は、それを申し訳ないと思わなくていい。俺の判断ミスだ」
お前のせいじゃなくて俺のせい。表面だけ聞けば優しい言葉が、鋭いナイフとなって佑馬の胸を抉る。お前がどれだけ反省しても、俺は俺の考えを曲げない。もうお前のために無理をしない。これは、そういう宣言だ。
「バーを辞めた理由を話さなかったのも、俺のための無理か?」
肺から空気を絞り出す。樹が横目で佑馬を見やり、すぐにまた正面を向いた。
「そうだな」
「俺はそんなこと望んでない」
「そうなんだろうな。大人が子どもを守ろうとするように、独り善がりにお前を守ろうとした。結局、俺もお前を人間扱いしてないんだ。俺たち、そういうところは似てるよ。噛み合えば、何も言わなくてもお互いの望むことをできる、理想のカップルになったと思う。噛み合わなかったけど」
上手くいった。噛み合わなかった。過去形の表現が、樹の中ではすでに終わったことなのだと告げる。そして、その表現に違和感を覚えていない自分の中でもそうなのだと、佑馬は現実に打ちひしがれながらフェンスを握る手に力を込める。
もっと前なら、間に合ったのだろうか。
長谷川樹が春日佑馬のためなら無理をしてもいいと思っているうちに、俺のために無理をしてくれと頼んでいたら、全く違う今が待っていたのだろうか。――そんなはずはない。自分を根底から偽るような無理をしないと一緒にいられない時点で、それはもう無理なのだ。
こうなってしまったことが全て。磁石の同じ極がくっつかないようにくっつかなかった。ただ、それだけの話。
それだけのことが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
「――ここの南京錠さ」
震えそうになる声を抑え、フェンスに手を触れる。
「ものすごい数だろ。だから、これをつけた全員が永遠の愛を手に入れて、今頃みんな幸せになってるかって言うと、そんなことはありえないと思うんだ。デートでここに来て、鐘を鳴らして南京錠をつけて、その半年後とか、三ヵ月後とか、何なら次の日とか、下手したらその日の夜とかに別れてるやつらが絶対にいる」
指先で南京錠を撫でる。永遠の愛を誓った証にしては冷えていて、指の腹がうっすらと固くなった。
「でも、それが普通なんだよな。世界はそうやって回っている。だから『どこにでもいる普通の恋人同士』の俺たちにも、そういうことが起こる」
これは天災だ。自然現象だ。そう自分に言い聞かせる。どこかにあった幸せな未来なんていう幻想を、迂闊に探してしまったりしないように。
南京錠をどこにつけたか忘れたなんて、嘘だ。しっかりと覚えている。嘘をついたのは向き合いたくなかったから。無くなっていればまだいい。もし残っていたら、今日ここで告げようと思っていた言葉は、きっと口にできない。
「樹」
これから大事なことを言うぞ。そういう想いを呼びかけに乗せる。すぐに海を眺めていた樹が振り向き、佑馬は思わず苦笑いを浮かべそうになった。ここに来て通じ合ってんじゃねえよ。クソが。
「俺たち、別れよう」
海風が声を散らす。樹の頭が、静かに縦に揺れた。
「ああ」
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