決意の朝
背後に人の気配を感じ、志穂は動画の再生を止めて振り返った。
後ろからパソコンを覗いていた山田がぎょっと目を剥く。志穂はかけていたヘッドホンを外し、椅子を半回転させて山田と向き合った。早朝のオフィスルームには、昨夜からスタジオに寝泊まりしている志穂と山田以外に誰もおらず、椅子の軋む音が静かな空間によく響く。
「何?」
「いや、別に用があるわけじゃないっすけど……徹夜っすか?」
「二時間ぐらいは寝たかな」
「タフっすねえ」
山田がふわあと欠伸をした。鼻の下にうっすらと生えている髭を見て、志穂は自分の顔はどうなっているのだろうとにわかに不安を覚える。起きてすぐに仕事を再開したので何の手入れもしていない。まあ、スタジオに泊まることなんて珍しくないし、山田にすっぴんを見せるのも初めてではないけれど。
「山田くんこそ眠そうだけど、昨日は社長につかまったりしないでちゃんと寝られたの?」
「ばっちりっすよ。一日十時間寝たいだけっす。むしろ志穂さんほっぽって寝まくってすいません」
「運転するんだから寝るのも仕事のうちでしょ。山田くんに起きられても今のところやることないし」
志穂がパソコンのディスプレイを横目で見ると、山田も同じように目線を移した。一時停止が押された動画編集ソフトのウインドウから、バーの制服を着た涙目の若い女が二人を見つめる。
「それ、さすがに使えないっすよね」
「まあね……どう転ぶにしてもこれは無理かな。告発になるから」
「どう転ぶんですかねえ」
山田が億劫そうに呟く。志穂は「さあ」と答え、ギュッとまぶたを強く閉じて乾いた目を潤した。そして朝日を受けて輝く他の社員のデスクやパソコンを眺めながら、これからのことをぼんやりと考える。
今日の春日と長谷川のデートで、方向性はだいたい決まる。
決まれば決まったように動く。それが今の結論で、それ以上は何もない。ただ、今日まで待ってくれと頼んできた春日からは「絶対に茅野さんたちに損害は与えません」と言質を取っており、相変わらず山田の家に入り浸っている長谷川も「山ちゃんたちには迷惑かからないようにするよ」と言っているので、何かしらの結論は出せるだろう。そうでなければ志穂たちもここまでの様子見は許容できなかった。
とはいえ、その結論が志穂の期待通りになるとは限らない。魂のこもっていない映像を仕上げ、ただ金銭の対価として先方に渡す。そういう未来は十分にあり得るし、むしろそうなる可能性の方が高い。だから今の段階で取材映像を見返してドキュメンタリーのことを考えても何の意味もない。寝ていた方が遥かに有意義だ。
そうしないのは勿論、志穂がその未来を許容したくないからに他ならない。
「山田くん」
疲れを振り払うように、志穂は腹に力を込めて声を発した。眠たそうに細められていた山田の目が開く。
「なんすか?」
「もし私が、完全に無駄になるかもしれない作業に何日か徹夜する勢いで全力出してくれって頼んだら、受けてくれる?」
「受けますよ」
あっさりとした返事に、志穂は面食らった。山田が親指を立てた右手を突き出す。
「オレは志穂さんのパートナーっすから。ガンガン仕事振ってください」
――もっと山田くんを信用してあげなよ。
いつか日出社長にかけられた言葉が、ふっと脳裏に蘇った。志穂は椅子から立ち上がり、オフィスの出入り口に向かいながら山田の肩をポンと叩く。
「期待してる」
山田が元気よく「はい!」と返事をした。志穂はそのエネルギーを背に受けながらオフィスを出て、一階のリビングに向かう。リビングのドアを開けるとソファに座ってテレビを観ていた日出社長が、モーニングコーヒーのカップを手に持ったまま振り向いて声をかけてきた。
「おはよう、志穂ちゃん。コーヒー飲む?」
「飲みたいですが……その前に」
志穂はソファに歩み寄った。そして気の抜けた顔で志穂を見上げる日出社長の前に立ち、背筋を伸ばして気道を真っ直ぐに通す。
「社長」
喉が震える。ここ数ヶ月で、一番気持ちの良い声が出せた。
「相談があります」
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