Chapter8:85日目

取材映像⑦

「あの日は、お客様が少なかったんです」


 白シャツの上に紺のベストをまとった若い女性が、テーブルの向こうから神妙な面持ちで口を開いた。


「だから、すごく暇でした。そういう時は洗い物をしたりするんですけど、そのうちそれもなくなって、外の喫煙所の掃除に行くことにしたんです。そうして店の裏口を出たら、そこを曲がれば喫煙所という建物の角のところに、長谷川さんが立っていました。きっと長谷川さんも暇だったんでしょう。本当に、あと一組でもお客様がいれば違ったと思うんですけど」


 女性が力なく笑った。あとほんの少しでも客がいれば、あんなことにはならなかったのに。そう運命を皮肉るように。


「長谷川さんは建物の角に隠れるようにして、喫煙所の方を眺めていました。私が近づくとこっちを見て気まずそうな顔をしましたけど、すぐまた喫煙所に視線を戻しました。私も気になって長谷川さんの後ろから喫煙所を覗くと、そこにいたんです。その……」


 女性が言い淀んだ。だけどすぐに顎を上げ、続きを言い放つ。


「春日さんの、上司の方が」


 他の誰にも聞かせたくない。でもあなたには絶対に聞いて欲しい。ボリュームは小さいのに張りのある声から、そういう意思が伝わる。


「その方は一緒に店に来た友人と、煙草を吸いながら雑談をしていました。耳を澄まして聞いてみると、春日さんの話をしているようでした。そしてその友人の方が、その、あまり品のない方で、話の振り方が失礼だったんです。『もし告られたらケツ掘らせるの?』とか聞いたりして。だけど春日さんの上司も、そういうのを注意しないで『掘らせるわけないだろ』とか言って笑っていました」


 女性が唇を噛んだ。悔しさがにじみ出る素振り。


「そして、そのうち友人の方が『まあでも、お前の会社はそういうのに力入れてるんだから我慢しろよ』と言いました。『そういうの』も『我慢』もひどい言葉で、私は本当に嫌な気分になりました。でも春日さんの上司はやっぱり怒らず、こう答えたんです」


 わずかな溜めの後に、小刻みに震える声が放たれた。


「『適当にホモ雇うだけで先進企業ぶれるんだから、楽なもんだよ』って」


 女性が顔を伏せた。下を向いた口から語られる言葉が、テーブルにぶつかり跳ね返って届く。


「次の瞬間、長谷川さんが春日さんの上司に飛びかかりました。いつ動いたのか分からないぐらい、一瞬の出来事でした。気が付いたら長谷川さんは春日さんの上司を地面に寝かせて殴っていて、私と友人の方はそれを止めようとしていました。そのうち長谷川さんは倒れている春日さんの上司から離れて店に戻り、私は急いで長谷川さんを追いかけました。二人で話をしたかったんですけど、長谷川さんはそのまま店のカウンターに出てしまって、それは出来ませんでした」


 抑揚のない語り口が、進むにつれてどんどんと不安定になっていく。


「そのうち、春日さんの上司と友人の方が店内に戻ってきました。二人は他の仲間に何も言わずに飲み会を続け、やがてそのグループは普通にお会計を済ませて店から出て行きました。私は正直、安心しました。何もなかったことに出来ると思った。でも店じまいの時、長谷川さんから店を辞めると聞き、今日のことを誰にも言わないで欲しいと頼まれました」


 心の揺れを無理やり押さえつけるように、声量が一際大きくなった。


「長谷川さんが辞めることないと私は言いました。確かにお客様に暴力を振るいはしたけれど、それは相手も悪いし、問題にもなっていないのだから黙っていれば分からないと。でも、長谷川さん自身がダメだそうです。このままこの店で働き続けられる気分じゃない。そう言っていました」


 沈黙。やがて女性が、伏せていた顔を勢いよく上げた。


「おかしいじゃないですか」


 薄ぼんやりとした照明が、涙で濡れた女性の頬を照らす。


「どうして長谷川さんが苦しまなくちゃならないんですか。一人で抱え込んで、一人で損をしなきゃいけないんですか。おかしいですよ。絶対に――」


 ドン!


 テーブルを叩く大きな音が、周囲に響き渡った。女性がびくりと肩を震わせて語りを止める。画面の外から、絞り出すような男の声が届いた。


 ――なんでだよ。


 答えはない。それでも、男は繰り返す。


 ――なんで。

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