約束
マスターに礼を言い、バーを出てから、しばらく誰も口を開かなかった。
茅野と山田が自分の言葉を待っているのは分かっていた。だけど佑馬は何も言わなかったし、言えなかった。与えられた情報を処理することに精一杯で、新しい何かを外に出す機能が停止していた。可能ならば、息をすることすら止めてしまいたいような気分だった。
駐車場の車には、運転席に山田、助手席に茅野、後部座席に佑馬という配置で乗り込んだ。前と後で空間が分かれたことにより、茅野と山田の雑談が発生する。ついさっき行ったばかりの取材に触れず、別の仕事について延々と語る二人はあまりにも不自然だったが、佑馬はその気づかいを享受して考え事に耽った。
やがて、山田が車を住宅街の路肩に停めた。そして前方に見える安普請な二階建てアパートを、フロントガラス越しに指さす。
「あれがオレんちっす」
「本当にボロいのね」
「いや、あの会社の給料だとあんなもんですって。志穂さんは新人の頃どうしてたんすか?」
「……親から仕送り貰ってたかな」
「でしょ?」
賑やかな会話を尻目に、佑馬はドアを開けて車から外に出ようとする。しかし山田に「春日さん」と呼びかけられ、足を止めた。
「これ、部屋の鍵っす。中にいるなら開いてると思うっすけど、念のため」
運転席の背もたれ越しに、山田がくすんだ銀色の鍵を佑馬に手渡してきた。佑馬は鍵を受け取ってグッと握りしめる。
「202っすよ」
「分かってる。ありがとう」
車を降り、ドアを閉めて歩き出す。アパートは近くに寄ってみると車から見た印象以上に古びていた。壁の漆喰のあちこちに亀裂が走り、二階に続く金属階段も錆びついていて、上るたびに階段全体が揺れて緊張と不安を煽る。だけど階段を上りきって202号室の前に立つと、嘘のように気持ちが落ち着いた。きっと、もう行くしかないからだろう。
ドアノブに手をかけて回すと、すんなりとドアが開いた。同居したての頃、家にいる時も鍵をかけろと言い聞かせたことを不意に思い出す。結局、何度言っても直らなかったので諦めてしまった。自分ばかりがしゃかりきになって、最後には何も変わらずに終わる。あいつとの思い出はそんなものばかりだ。
玄関からは短い廊下が真っ直ぐ伸びており、右手側には洗濯機と冷蔵庫、そしてキッチンが設置してあった。どれもいかにも一人暮らし用といったサイズで、佑馬の部屋と比べてどちらが快適かなんて比べるまでもない。それでも一週間もの間ここにいる理由を、今さら考えるまでもないように。
廊下を歩き、擦りガラスの嵌まった正面のドアを開く。およそ六畳程度のワンルームに寝転び、テレビを見ていたジャージ姿の樹が、首を曲げて振り向いた。そして緩慢な動きで起き上がり、あぐらをかいて佑馬と向かい合う。
「よ」
「……驚かないんだな」
「連絡があったからな。我慢できなくて話したって泣きながら謝られたから、来るんじゃねえかなと思ってた。いい大人が大学生の女の子を泣かせるなよ」
「俺が泣かせたわけじゃない」
「お前のリアクションを見て、やべえことになったと思って動揺したんだから、お前が泣かせたようなもんだろ。もっとどっしり受け止めろよ」
「受け止められるわけないだろ」
吐き捨てる。自嘲気味な笑みが、佑馬の口元に浮かんだ。
「おかしいとは思ってたんだ。いつもは人の名前、覚えないもんな。あっちも変に気にしてるみたいだった。だけど――」
語りたい話の筋が、頭の中で混線する。違う。そこはどうでもいい。今、一番大事なのは――
「どうして言わなかった」
佑馬は目に力を込め、樹をにらみつけた。しかし樹はいつもと変わらない調子で飄々と語る。
「言う必要ねえと思ったからだよ」
「なんでだよ! 言ってくれれば今頃、俺たちの関係だって違っただろ!」
「んなことねえ」
鋭い声。樹の目がわずかに細められた。
「言わなかったからこういう風になったんじゃない。こういう風になるような関係だから言わなかったんだ。言えるような俺たちなら、それこそ、こんなことにはなってねえ。分かるだろ」
そんなことはない。そう強気に返せない自分に、佑馬は唇を噛む。分かっている。言えるような関係なら、言わずにこじれてもすぐに修復できる。言わなかったことは原因ではなく、答えだ。
どうしてこうなってしまったのだろう。
樹との関係について、佑馬は何度もそんなことを考えた。何がいけなかったのか。どうすれば良かったのか。無意味と分かっていながら繰り返しシミュレーションした。でも、違う。「こうなってしまった」ことが全てなのだ。磁石の同じ極がくっつかないようにくっつかなかった。ただ、それだけの話。
だけど――
「再来週の、お前の誕生日」
ボソリと呟く。樹の眉が小さく動いた。
「去年と同じ、江ノ島に行こう。そこでこれからの話をしたい。茅野さんには俺から言っておくよ。納得してくれるかどうかは、分からないけど」
無茶苦茶だ。自分で言いながらそう思う。なんでだよ、知らねえよと一蹴されてもおかしくない。むしろ樹が佑馬に見切りをつけているなら一蹴するだろう。これからの話なんて、するまでもなく決まっているのだから。
樹があぐらを整え直し、曲がっていた背中を伸ばして佑馬に向き合った。
「分かった」
ありがとう。囁くように礼を告げ、踵を返す。それから外に出て錆びついた階段を下りた頃、佑馬は泣いている自分に気づき、手で涙を拭ってから茅野たちの待つ車に向かった。
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