真相

 以前、会社の同僚と樹の働くバーを訪れた時、佑馬は店員に樹の働きぶりについて聞かなかった。


 話さなかったわけではない。佑馬から話しかけるまでもなく、若い女性店員に話しかけられた。「それ作ったの、樹さんですよ」。白い皿に盛りつけられた鴨のローストを指さしてそう言う彼女に、佑馬はジンとシャンパンをベースにしたカクテルを飲みながらこう返した。「へえ」。


 きっと、恐れていたのだろう。樹が佑馬の知らない場所で知らない関係を築いていることを、長谷川樹という人間に自我があると理解することを恐れていた。世間から理想の同性カップルとして扱われ、自分たちもそうなりたいと願いながら、樹がその枠に収まらないことを薄々感じていた。だから見ないふりをしたのだ。そうすれば樹がいつか、自分の思い通りになると思っていた。そんなわけないのに。


 木目調のドアを開き、茅野たちとバーに足を踏み入れる。店内はカウンター席とボックス席に別れており、どちらも半分ほど客で埋まっていた。カッターシャツの上に紺色のベストを羽織り、豊かな口ひげを生やしたバーのマスターが、カウンターの中から佑馬たちに向かって笑みを浮かべる。


「いらっしゃいませ。茅野さんですか?」

「はい」


 茅野が前に出た。マスターが指を揃えた手で店の奥を示す。


「あちらの席でお待ちください。すぐに伺いますので」

「分かりました。よろしくお願いします」


 示されたボックス席に向かう。三人がけのソファがテーブルを挟んで置かれていたので、奥に佑馬、中央に茅野、手前に山田という順番で片方のソファに並んで座ることにした。山田がカメラバッグからカメラを取り出し、撮影のポジションを考えている間に、マスターが現れて茅野の正面に座る。


「お待たせしました」

「いえ。こちらこそ、突然の申し出を受けて頂き、ありがとうございます」

「気にしないで下さい。店の宣伝になれば、こちらとしても得ですから」

「そう言って貰えると助かります。では改めまして――私は映像制作会社『ライジング・サン』のディレクター、茅野と申します。こちらはカメラマンの山田です。よろしくお願いします」


 茅野がテーブルに名刺を差し出した。そしてそのまま佑馬の紹介を繋げる。


「そしてこちらの方が、以前このバーで働いていた長谷川さんの恋人である春日さんです。春日さんはこちらにも一度来られているとのことなので、覚えていらっしゃるかもしれませんが……」

「覚えていますよ。直接お話はしていないと思いますが、長谷川くんからもよく話は聞いていたので印象に残っています」

「樹が僕の話を?」

「ええ。それこそ面接の時から、パートナーシップの宣誓もしたのにいつまでもふらふらして春日さんに迷惑をかけたくないと言っていました」


 ――それは僕がそう言って樹をけしかけたので、復唱しただけだと思います。


 言いかけて、口をつぐむ。生まれた沈黙を茅野が埋めた。


「では取材に移りたいのですが、ここからはカメラを回して良いでしょうか?」

「ええ。構いません」

「ありがとうございます。山田くん、お願い」


 指示を受け、山田がカメラのレンズとマイクをマスターの方に向けた。緊張からマスターの両肩が上げる。


「まず、長谷川さんの第一印象を語って頂けますか?」

「そうですねえ……素直な子、というのが一番でしょうか」


 素直。いきなり自分と全く異なる評価が飛び出し、佑馬は「は?」と間の抜けた声を上げそうになった。


「どの辺りからそう感じましたか?」

「働きたくて面接を受けに来る人間は、普通は経歴を盛るんです。悪いところは隠すし、良いところは膨らませる。でも長谷川くんは、アルバイトを何度も短期間で辞めたとか、料理は趣味で作っているだけで職業にしたことはないとか、赤裸々だったんです」

「そこまで正直に言われたのに、雇うことにした理由は?」

「選り好みできる状況ではなかったというのが一つ。試しに料理を作って貰ったら良く出来ていたというのが一つ。後は、インタビューのことがあって有名だったからですね。調理担当と言っても手すきの時は接客もしてもらいますので、集客に繋がらないかなと。今思うと即物的で恥ずかしい理由ですが」


 マスターが照れくさそうに頭を掻いた。茅野の質問が続く。


「実際、集客には繋がったのでしょうか?」

「期待通りの効果はありませんでしたが、お客様は増えました」

「……どういうことですか?」

「接客態度が良くて、普通にお客様に好かれたんですよ。長谷川くんが有名だから見に来る人はいなかったけれど、長谷川くんと話したいからリピーターになる人はいたんです」


 接客態度が良い。お客様に好かれる。マスターの口から語られる言葉が、佑馬の知らない樹をどんどんと形づくっていく。


「単純に、対人スキルが高かったと」

「うーん、むしろ逆にスキルがないからいいというか……先ほど言ったように素直なんですよ。だから話していて安心するし、踏み込んだことを言っても愛嬌で済まされる。辞めた時はがっかりしたお客様もたくさんいました」


 辞めた。その言葉に佑馬は引っかかりを覚える。同じように引っかかった茅野が、佑馬の思ったことをそのままマスターに問いかけた。


「そんなに上手く行っていたのに、なぜ辞めたのでしょうか?」


 どんな答えが返ってくるのか。固唾を飲んで見守る佑馬の耳に、マスターのとぼけた声が届いた。


「さあ」


 拍子抜けするような回答に、佑馬だけではなく茅野も言葉を失った。マスターが腕を組み、考え込むように首をひねる。


「ある日いきなり辞めたいと言い出して、理由を聞いたのですが答えてくれませんでした。ただ、金銭面の問題ではないと思います。時給を上げるという提案には、そういうことではないとはっきり言っていたので」


 マスターがふと、何かに気づいたように顎を上げた。そして上向いた視線を佑馬にぴったりと合わせる。


「辞めた理由については、春日さんの方が詳しいのでは?」


 ――なんか、合わねえ。


 理由を尋ねた時、樹から返ってきた回答を思い返す。あの時、樹はどんな顔をしていただろう。思い出せない。どうせいつもの気分屋だと思って、頭ごなしに怒ってしまったから。


「……それが、僕にも教えてくれなくて」

「そうなんですか。いったい、どういうわけなんでしょうねえ」


 分からない。でもあの時の樹の返事が嘘だというのは分かる。樹はちゃんとやれていた。自分勝手で、ひねくれていて、社会でやっていけない男を正しい道に導いてやろうという自分の考えは、決めつけと見下し以外の何物でもなかった。


「――あの」声に力を込める。「樹と特に仲の良かった店員さんとかいませんか。その人に聞けば分かるかも」


 隣の茅野が、驚いたように佑馬の方を向いた。茅野の取材のイメージを濁らせたことを理解しつつ、佑馬はマスターと会話を続ける。


「シフトのよく被る大学生の女の子がいて、彼女とはよく話していましたね。とはいえ私が聞いた話だと、彼女も長谷川くんが辞めた理由は知らないようですが……」

「その子は今日いますか?」

「いますよ。代わりましょうか?」

「お願いします」


 早口で言い切る。マスターが「分かりました」と席を離れ、カウンターの方に向かった。佑馬は声をひそめ、茅野に頭を下げる。


「すいません。取材の邪魔をしてしまって」

「構いませんよ。取材という形を取ってはいますが、実際は長谷川さんのことを知りたいという私的な行動ですから。春日さんには場をリードする権利があります」


 権利。固い言葉を吐いた後、茅野がどこか物憂げに視線を流した。


「春日さんは、ここまで聞いた感触として、どうですか?」

「……正直、別の人間の話を聞いている気分です」

「同感です。マスターが取材依頼を簡単に受けてくれた時から違和感はありましたが、辞めた職場にここまで高く評価されているとは思いませんでした」

「そうっすか?」


 茅野の隣から、山田がきょとんとした表情で口を挟んできた。


「長谷川さん、コミュ力ありますし、美味いメシ作りますし、オレは別に不思議じゃないっすよ。まあ、辞めちゃったのは不思議っすけど」


 ――だろうな。茅野も言っていたように、山田は樹を人間として見ていた。身体を重ねた恋人であり、同じ性的指向を持つ仲間でもある佑馬にはできなかったことができていた。茅野はできなかったのだとも言っていたけれど。


「お待たせしました」


 髪を後ろでまとめた若い女性が、さっきまでマスターが座っていた席に着いた。思わず「あ」と声を上げる佑馬に、女性が微笑む。


「僕が前にこの店に来た時、お話ししましたよね」

「はい。あの時はありがとうございました」


 女性が丁寧に頭を下げた。佑馬は話しやすい相手が来たことに胸を撫でおろし、和やかな雰囲気のまま一気に踏み込もうと話を切り出す。


「あの、それで――」

「知っています」


 芯の通った声が、佑馬の歩みを止めた。


「長谷川さんが辞めた理由、知っています。だけど誰にも話していません。長谷川さんに止められたから、今まで秘密にしていました」


 語りには淀みがなく、強い意志が込められていた。先手を取られて戸惑う佑馬に代わり、茅野がインタビュアーを引き継ぐ。


「長谷川さんは、なぜあなたを止めたのですか?」


 女性が目を伏せた。言葉を口の中で固めるように、唇をキュッと引き絞ってから語り出す。


「春日さんに知られたくなかったからです」


 告白に、佑馬の脳が揺れる。女性の大きな瞳が佑馬を捉えた。


「でも私は知らなくてはいけないと――知って欲しいと思います。長谷川さんが春日さんから仕事が半年続かなかったら別れると言われたことも、辞めたことが原因で実際に別れそうになったことも聞いています。それからどうして二人のドキュメンタリーを撮ることになっているのかは知りませんが、仲直りしたなら良かったとは思えない。私は長谷川さんが春日さんに誤解されたままなのは嫌です。長谷川さんが良くても、私が嫌なんです」


 女性の目にじわりと涙が浮かんだ。感極まって震える声を抑えるように、大きく息を吸ってから口を開く。


「実は――」

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