人として

 パソコンをシャットダウンして、席を立つ。


 お疲れ様でした。ボソボソと呟いた挨拶に、同僚から「お疲れー」とやたら明るい返事が届き、何も悪いことはしていないのに居たたまれない気分になった。ビジネスバッグを肩に担ぎ、早足で席を離れる佑馬の前方から、会議を終えて席に戻ろうとする久保田がやってきて声をかけてくる。


「お、お疲れ」

「お疲れ様です」


 足を止めずに頭を下げ、そのまますれ違おうと試みる。だけど久保田がさらに話を続けてきて、その試みは失敗に終わった。


「春日。お前、最近どうした」


 ――どういう意味ですか?


 惚けた返しが脳裏に浮かんだ。だけど惚けられるわけがないので黙る。誰がどう見ても今週の自分は覇気がなかったし、そんな自分を久保田が意識しているのも気づいていた。ただ――


「ドキュメンタリーを餌に仕事を取ったこと、そんなに気になるか」


 やはり勘違いをしている。久保田が右手でポンと佑馬の右肩を叩いた。


「まあ気にするなって言っても難しいよな。とりあえず土日はゆっくり休め。撮影があるから、休めないのかもしれないけどな」


 撮影なんてありませんよ。それどころか、ドキュメンタリー自体なくなるかもしれません。久保田さんにも協力してもらったのに、申し訳ありませんでした。全て自分のせいなので、文句は自分に言って下さい。


「……はい」


 小さく頷く。久保田が困ったように笑い、佑馬とすれ違って離れて行った。佑馬も振り向かずに歩き出し、そのままオフィスを出て帰路に着く。


 午前中に雨が降ったせいか、外の空気は湿度が高く鬱々としていた。どうにも食欲が湧かず、マンション近くのコンビニでおにぎりを買って今日の夕食とする。やがてマンションの部屋に着き、リビングで「ただいま」と熱帯魚たちに声をかけ、おにぎりを食べてから魚にも餌をやり、ワイシャツを脱がないとしわになるのを分かっていながらそのままソファに寝転がる。


 一週間様子を見て、状況に変化がなければ茅野たちで対応を決める。


 ドキュメンタリー撮影に関するその決定を、佑馬は無条件で受け入れた。佑馬はドキュメンタリーの主役ではあるが、投資をしているわけではない。進退を決定する権利なんて、最初からあるわけがなかった。


 そしてあれから今日で一週間、佑馬は樹と一言の言葉すら交わせていない。山田が言うに樹は佑馬を全力で拒絶しており、今は迂闊に触れない方がいいとのことだ。その言い分に、佑馬は納得した。樹のコミュニケーションの取り方は、良く言えば素直、悪く言えば子ども。癇癪を起こしている時は近寄らないに限る。


 ズボンのポケットで、スマホが小刻みに震え出した。


 茅野からの連絡を期待し、スマホを取り出して画面を覗く。しかしディスプレイに映っていたものは、片桐によるLINEのコールだった。出たくない。そう思ったものの義務感が勝り、ソファに座り直してコールを取る。


「佑馬くん?」

「はい。どうしたんですか、いきなり」

「都内で飲んでるんだけど来ない? 撮影の話も聞きたいし」


 ――間が悪い。あるいは、良すぎるのか。


「もう家に戻っているので、また出るのは少し億劫ですね」

「もう? まあでも、同居人がいればそんなものか」


 樹の話題。背筋にひやりとしたものが走り、佑馬は話を逸らす。


「片桐さんは真希さんと一緒ですか?」

「ううん。一人。だから佑馬くんに声かけたんだけど、残念だな」

「真希さん呼べばいいじゃないですか」

「呼べないよ。私たち、もう別れるかもしれないし」


 軽く放り投げられた言葉が、内臓にずしりと圧しかかった。片桐の声が投げやりな響きを帯びる。


「出産の話、こじれたままでさ。なんかもうどうにもならない感じなの。それで愚痴ろうと思って佑馬くんに声かけたってわけ。ごめんね」

「……いいですよ。誰だって弱気になることぐらい、あると思いますから」

「そう言ってくれると助かるわ。ありがと」


 沈黙。そして、短い激励。


「撮影、頑張ってね。それじゃ」


 通話が切れる。佑馬は全身の力を抜き、再びソファで横になった。そしてテレビ台の上のフォトスタンドで満面の笑みを浮かべる、仲睦まじかった頃の佑馬と樹を焦点の合わない目で眺めながら、つらつらと物思いに耽る。


 そういえば、茅野に今年も樹の誕生日はどこかに出かけると宣言していた。およそ二週間後だが、どこに行こう。去年と同じ江ノ島に行って思い出を辿れば、ドキュメンタリーとして使いやすい映像が撮れるかもしれない。いや、そんなことを考えるより先に、考えるべきことがあるのは分かっているけれど。


 ――赤の他人が同じ家に住んでるのはおかしいから、出て行くんだよ。


 赤の他人だなんて、そんなこと言うなよ。長いこと一緒にやってきただろ。噛み合ってなかったかもしれないけど、一緒にいた。それは確かなはずだ。


 ――死人は、生き返らないと思う。


 俺たちは死んだのかな。それとも、殺されたのかな。殺されたとしたら、誰に殺されたのかな。俺かな。お前かな。それとも、俺でもお前でもない、もっと別の何かなのかな。分からないよ。


 ――そうやって、ずっと他人のために生きていくつもりなのか?


 そんなことないさ。俺は俺のことしか考えていない。いつだって、今だって、俺が幸せになることばかり夢想している。でも、いいじゃないか。パートナーシップの宣誓をした時、カメラの前で言ってくれただろ。


 ――こいつが嬉しいなら、嬉しいですよ。


 ピンポーン。


 間の抜けた音がリビングに響き、暴走する佑馬の思考を止めた。ソファから起き上がり、インターホンのモニターに近寄ると、マンションの共用玄関に待機する茅野と山田が目に入る。なかなか連絡が来ないと思っていたら、わざわざ家まで話をしに来たようだ。別に電話でいいのに。


「はい」

「春日さんですか? あの――」

「分かってます。今開けます。玄関も開けておくので、入ってきてください」


 共用玄関のロックを解除してから、玄関に行って鍵を開ける。それからソファに座ってしばらく待っていると、茅野と山田が揃ってリビングに入ってきた。いやに神妙な顔をしている茅野に向かって、佑馬は自嘲気味に笑いながら語りかける。


「ドキュメンタリーをどうするか、決まりましたか」


 どうせ中止でしょう。そういう響きを言外に含ませる。しかし茅野はふるふると首を横に振った。


「決まっていません。だから決めるために、ここまで来ました」

「……僕の同意が必要ということですか?」

「違います」


 茅野が一歩前に出た。距離が近づいた分、声が大きくなる。


「取材をしたいので、長谷川さんが前に働いていた職場を教えてください」


 思いも寄らない言葉が飛び出し、佑馬は強く眉をひそめた。しかし茅野は動じることなく語り続ける。


「厳密に言うと、前の職場でなくても構いません。長谷川さんを知る人がいる場所をどこでもいいから教えてください」

「……仰っている意味が分かりません。それを知ってどうするんですか?」

「ですから、取材をするんです」

「ドキュメンタリーの撮影は続行ということですか?」

「違います。続行するために、取材をするんです」


 茅野の声がさらに大きくなった。今度は、距離が縮まったからではない。


「今、私や春日さんが長谷川さんの元に出向いて言葉を尽くしても、きっと長谷川さんの心を動かすことは出来ません。私たちは長谷川さんを知らなすぎる。だから私たちの知らない長谷川さんを知る人の話を聞き、長谷川さんの人となりに触れる努力をする。まずやるべきことは、それだと思いました」

「……僕が樹を知らない?」


 これでも年単位で同居してたんだぞ。そういうニュアンスを込めて疑問形の言葉を放つ。茅野はその意図を的確に読み取り、そして、はっきりと答えた。


「はい」


 たった二文字の返事が、佑馬の胸を深く抉った。


「お二人がどのように年月を重ねてきたのか、私には分かりません。きっと通じ合っていた時期もあったのでしょう。ですが今はすれ違っている。そしてすれ違いの原因は、春日さんが長谷川さんをちゃんと見ていないからだと思います」

「何を根拠に……」

「長谷川さんがこの部屋を出て行かれた後、私と春日さんは真っ先にドキュメンタリーの心配をしました」


 茅野が、自分の少し後ろに待機する山田をちらりと見やった。


「ですが私たちはあの時、長谷川さんの心配をするべきだったんです。というか、長谷川さんのことをちゃんと見ている人なら、言われるまでもなく自然とそうします。でも実際そこに気を回せたのは山田だけ。だから長谷川さんは今、この部屋ではなく山田の部屋にいるのでしょう」


 茅野の後ろで、山田が首を縦に振った。そして佑馬を見据える。お前はまだ気づかないのか。若い目線がそう訴えて来る。


「人間扱いして欲しい」


 かつて佑馬が口にした台詞を、茅野が声高に言い放った。


「酔いつぶれた春日さんが呟いた言葉に、私は本当に共感しました。私もずっと茅野志穂という人間を、茅野志穂という人間として見て欲しいと思っていた。でも、きっと、だからなんです。自分を人間扱いして欲しいと願うあまり、他人を人間扱いすることを忘れていた。求めるばかりで、与える余裕がなくなっていたんです」


 胸に手を乗せ、茅野が深く息を吸った。リビングの空気が震える。


「私はこれまで長谷川さんのことを、撮影に協力してくれる同性カップルの片割れとして見ていました。でもこれからは長谷川樹という人間として向き合いたい。もう遅いかもしれないけれど、そうしたいんです。だから――お願いします」


 両手を身体の前に揃え、茅野が大きく頭を下げた。佑馬はその姿をぼんやりと眺めながら、まとまらない考えを無理やりまとめようと頭を回転させる。


 何を頼まれていたんだっけ。


 ――ああ、そうだ。樹を知っている人から話を聞きたいから、そういう人がいる場所を教えてくれと言われているんだ。確かに俺も、俺の目を通してしか樹のことを知らない。樹は自分の領域に他人を入れたがらないから、樹の知り合いから樹の話を聞くなんてことは、今まで一度もなかった。


 俺の知らない樹。俺の見たことのない樹。


 どんなやつなんだろう。


「その取材」


 佑馬の口から、呟きがこぼれた。茅野の頭が上がる。


「僕も、一緒について行っていいんですよね」


 確かめるように尋ねる。茅野が頬をゆるませ、はっきりと答えた。


「もちろんです」

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