再起
玄関に現れた全身ずぶ濡れの志穂を見て、斎藤はまずシャワーを浴びるよう促してきた。
言われるがまま、浴室でシャワーを浴びる。温水の熱が皮膚を通して身体に染み込み、志穂は自分が思っていたよりも疲れていることに気がついた。そのうち浴室のドア越しに斎藤が「タオルと着替えここに置いとくね」と声をかけてきたが、シャワーの音に負けない声を出す気力が湧かず、伝わりもしない頷きを返事にしてその場をやり過ごした。
浴室を出て、用意されたえんじ色のジャージに着替える。リビングに向かうと、いつか日出社長や春日たちと囲んだローテーブルの上に、琥珀色の液体で満ちたティーカップが二つ置かれていた。そしてその片方のティーカップの前では斎藤が、ゆったりとした室内用のワンピースを着て足を崩している。
「ジャージのサイズ、大丈夫?」
「はい」
「良かった。それ、志穂ちゃんにあげる。もうしばらく入らないと思うから」
斎藤が自分の腹を撫でた。志穂は黙って斎藤の向かいに座り、ティーカップの中身を口に運ぶ。琥珀色に輝く液体の正体はホットのレモンティーであり、ほんのりとした酸味が志穂の舌をやわらかく撫でた。
「荷物とか何も無かったけど、どうやってここまで来たの?」
「……電車で来ました。スマホがあれば電子マネーが使えるので」
「じゃあ、傘も買えばよかったのに」
斎藤が自分のレモンティーに口をつけ、カップをソーサーに戻した。何かの合図みたいに、陶器のぶつかり合う音がリビングに響く。
「何があったか、聞いてもいい?」
はい。
思い浮かんだ返事が、舌の付け根で止まる。話したくないのではない。どう話せばいいのか分からない。出来事をありのまま話すことはできる。だけどそれでは、絶対に足りない。
「……長谷川さんに、撮影から下りられました」
口を閉じ、続きを待つ斎藤に、志穂は言葉を探しながら語る。
「あの二人、撮影が始まる前から関係が破綻していたらしいです。だけど春日さんはドキュメンタリーが社会を良い方向に動かすならと思い、偽りの恋人を演じて撮影を受けることにした。そういう話を先週、撮影から下りると宣言した長谷川さんに暴露されました」
違う。これじゃない。語りながら、そう思う。
「その後もどうにもならなくて、今日、撮影の続行を検討する打ち合わせを社長と行いました。そこで私、熱くなっちゃって、そうしたら社長が『自分の胸でも揉んでおちつけ』みたいなこと言い出して、山田くんがその冗談で笑って……キレてスタジオを飛び出した。そういう流れです」
これでもない。これはただの記録だ。メッセージになっていない。
「なるほどね」テーブルの向かいから、斎藤が軽く身を乗り出した。「それで志穂ちゃんは今、何を考えているの?」
ぼんやりした問い。適切な言葉を求めて渦巻いていた志穂の思考が、差し出された問題を解くためにピタリと止まった。
「今、ですか?」
「そう。長谷川さんに申し訳ないとか、社長と山田くんがムカつくとか、何でもいいから」
長谷川に申し訳ない。日出社長と山田がムカつく。――違う。この胸を覆っている感情は、そんな拭けば消える埃のようなものではない。長い時を経て積もったヘドロのように、粘っこくてしつこいものだ。
「……嫌、です」
「何が?」
「自分が」
自分の奥底に手を伸ばす。どろどろと汚らしい指触りのそれを、こねて丸めて形にする。
「きっかけは確かに、社長や山田くんへの怒りでした。でも今考えていることは違います。自己嫌悪です。だって、苛立ちを人にぶつけて、人に泣きついて、人に慰められて……」
答えに辿り着いた志穂の頬に、涙がつうと伝った。
「めちゃくちゃ、『女』って感じじゃないですか」
茅野志穂という女は、「女」が嫌いなのだ。
誰よりも「女」に偏見を持っていて、自分が「女」であることが耐えられない。だから世界を変えようとする。新しい色を加えるのではなく、全く違う色で塗りつぶす形で。
長谷川は、きっとそれを察したのだろう。志穂や春日の語る「世界を変える」が、世界にありのままを受け入れさせるという意味ではなく、世界を自分好みに作り変えるという意味だと正しく理解した。だから警戒したのだ。塗りかえられた世界に居場所がないと思ったから、その試みに抵抗を示した。
「癇癪起こして、暴れて、周りに宥められてすっきりする男の人だって、別に珍しくないと思うけどな」
諭すような言葉と共に、斎藤が背を引いた。そして両手を腰の後ろにつき、天井のLED照明を見上げる。
「長谷川さんの話」
天に放たれた音が、加速をつけて志穂の耳に落ちる。
「正直、意外じゃなかった。ここで話をした時も春日さんと全く様子が違って、何か裏で考えてそうだなと思ったから。それで――」
斎藤の声が、にわかに重みを増した。
「そこを聞き出せないなら、この先、上手くいかないだろうなと思って黙ってた」
志穂が失敗することを望んでいる。いつかの言葉を思い出し、志穂の心臓がぎゅうと縮まった。身体が強張り、涙も引っ込む。
「そういう志穂ちゃんが見たかったはずなんだけどなあ」
斎藤が身体を起こした。そして両肘をテーブルに置き、組んだ手の後ろに口元を隠して、真正面から志穂と向き合う。
「茅野さん」
固い呼び方が、志穂の全身に小さな痺れを走らせた。
「あなたの葛藤なんて、言っちゃ悪いけれど、ドキュメンタリーにとってはどうでもいいの。それはあなたがあなたの人生でどうにかするもの。自分を知って欲しい。悩みを分かって欲しい。あなたが個人としてそう願うのは勝手だけれど、ドキュメンタリーにそれは乗らないし、乗せてはいけない」
斎藤がひとさし指を伸ばし、志穂の眉間を指し示した。
「あなたは春日さんや長谷川さんを知る側で、分かってあげる側。それをちゃんとやろうとした? 私がほんの少し話しただけで気づいた違和感なんだから、あなただってうっすらと気づいてはいたでしょう。それでもこうなったのは、あなたが長谷川さんに触れることを避けてきたからじゃないの?」
志穂は息を呑んだ。反応から図星を突かれたと察した斎藤が、腕を下ろしてやれやれと首を振る。
「今みたいなことになっているの、春日さんたちや社長たちや社会のせいだと思っているでしょう。違うよ。ドキュメンタリーで社会のジェンダーバイアスを取り除きたいだなんて、自分のことばかりを考えて、相手のことを知ろうとしなかった。その報いが来ただけ。他にも原因はあるけれど、あなたもその一因を担っている」
厳しい言葉をつきつけ、斎藤が志穂からわずかに顔を逸らした。そして強気な態度から一転、哀願するように弱弱しく呟く。
「私のやりたかった仕事を引き継いだんだから、もっとしゃんとしてよ。そうじゃなきゃ、私も諦めがつかないじゃない」
――こっちは真面目に考えてるんだから、真面目に向き合え!
怒鳴り声が、記憶から引き出されて頭蓋骨の中で反響する。最も真面目に向き合っていなかったのは、真面目に向き合うべきだったのは誰なのか。決まっている。映像制作会社『ライジング・サン』のディレクターにして、ドキュメンタリー撮影の責任者である、茅野志穂その人だ。
なのに志穂は、その怠慢を棚上げにした。自分の非を考えず、まるで天災に巻き込まれたように振るまい、そのうちにちょうどいい言い訳を見つけて、ここぞとばかりに逃げ出した。
自分が女だから、何もかもが上手くいかないのだと。
「――すいません」
志穂は頭を下げた。レモンティーの水面に映る自分と目が合う。
「私、甘えてました」
「そうね。女だから舐められることも、そのせいで仕事が上手くいかないことも山のようにあるよ。でも――」
「分かっています。今回は、そうじゃありません」
顔を上げる。涙で汚れが洗い流され、クリアになった視界の中央で微笑む斎藤に尋ねる。
「尚美さん。私のスマホ、どこにありますか?」
「ここ」
斎藤が挿さっている充電コードごと、志穂のスマーフォンを持ち上げた。そしてコードを外して志穂に手渡す。画面のロックを解除すると、日出社長や山田がありとあらゆる手段を用いて連絡を取ろうとした通知の履歴がディスプレイに現れ、志穂はその中から一つ、山田からの電話を選んで通話を返した。
「もしもし」
「志穂さんっすか!?」
元気のいい大声が、キンと志穂の耳に響いた。志穂の唇がほころぶ。
「すいません! あの、オレ、三人兄弟の次男なんすよ。そんで上も下も男で、女っ気のない環境で育ってきて、いや、だから許してくれって話じゃないんすけど、とにかくそういうわけで――」
「山田くん」
言いたいことはたくさんある。だけど言うべきことは、一つしかない。
「今から車出せる?」
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