山田の親指が、スマートフォンの画面をタップした。


 洗面所に立つ下着姿の山田を映し、動画が止まる。『ライジング・サン』の応接室に設置してある古びたエアコンの駆動音が、動画の音が消えたことによって相対的に大きくなった。志穂と同じソファに並んで座る山田が、肩をすくめ弱気な様子で口を開く。


「こんな感じっす」

「続きは?」

「オレがひげ剃って顔洗って着替えてるのを長谷川さんがひたすら実況するだけっすけど、オレのストリップショー見みますか?」


 志穂は首を横に振った。そしてすぐに別の問いを投げる。


「動画で言ってた『昨日のこと』っていうのは何?」

「いや、リミット今日までって話じゃないっすか。だから長谷川さんの説得すげー頑張ったんすよ。でも長谷川さん全然聞いてくれなくて、だからオレもちょっと熱くなって……」

「言い訳はいいから、なんて言ったの?」

「……ガキみたいなこと言わないで下さいよって、言いました」


 山田の声が小さくなる。志穂はソファに身を沈め、力なく天井を仰いだ。無謀なミッションが予想通りに失敗しただけだが、予想できていたからと言って失敗によるマイナスがなくなるわけではない。抱え込み続けていた心労が身体中を駆け巡り、志穂の全身がずしりと重たくなる。


 一週間だけ、様子を見よう。


 長谷川が山田の家に転がり込んだ顛末を聞き、日出社長はそう提案した。一週間で長谷川の態度が軟化すれば、騒動自体を無かったことにして辻褄を合わせる。逆に一週間経っても状況が動かなければ、話を持ち込んできた局のプロデューサーに現況を伝え、撮影中止も含めて今後の検討を行う。要するに「一週間やるからその間になんとかしろ」というお達しだ。


 志穂はその提案を受け入れた。だが山田から伝え聞く話によると、長谷川は志穂や春日を全面的に拒否しており、説得に赴いた時点で山田の家からも失踪しかねない勢いらしい。なので仕方なく山田に長谷川の説得を一任し、信頼を勝ち取るよう指示を出したのだが――


「山田くんは、いつかディレクターになりたいのよね?」

「……はい」

「イラついて撮影対象に暴言を吐く人間に、ディレクターが務まると思う?」

「いや、でもオレだってそん時だけなんすよ。普段はちゃんと作ってもらったメシも褒めて……」

「ご飯作ってもらってる時点で何かおかしいと思いなさい」


 ぴしゃりと撥ねつけられ、山田が口を閉じた。すぐに応接室のドアが開き、話し合いの前にトイレに行っていた日出社長が現れる。日出社長が志穂たちの向かいのソファに座り、へらへらと笑いながら第一声を切り出した。


「ごめんね、遅くなっちゃって。歳取るとシモのコントロールできなくなるから」


 苦手なタイプの冗談だ。雰囲気を明るくしようとしているのは理解しつつ、志穂はわずかに顔をしかめる。


「それで、長谷川くんは今どうなの?」

「状況は変わりません。むしろ山田くんが長谷川さんを怒らせたせいで、以前よりも悪化してます」

「怒らせたの? どうして?」

「山田くん、説明して」


 冷淡に言い放つ。山田が「はい」と力なく答え、自分のスマートフォンをソファとソファの間にあるローテーブルの上に置いた。そして日出社長に向かってさっきの動画を再生し、さっきと同じところで止めて、さっきと同じ説明を今度は言い訳を抜きにして行う。


「なるほどねえ」


 日出社長が頷いた。それから腕を組み、どうしたものかと首をひねる。


「薄々、分かってるとは思うけど」日出社長が、志穂に目配せをした。「この仕事、プロデューサーさんの中では、そんなに重要度高くないんだよね」


 ――分かっている。そうでなければ100日間などという悠長な撮影期間は与えられない。ストック用の弾として持っておきたい。その程度の映像のはずだ。


「だから、割と簡単に引き上げられちゃうと思うのね。するとこっちの問題だから納品できなかった時の費用請求も難しいだろうし、タダ働きになるから、僕としてはあまりそうしたくない。いや、志穂ちゃんと山田くんにお給料は払うよ。そうじゃなくて会社としてタダ働きってこと。そこは信用して」

「信用します」

「ありがと。それで、そういうわけだからどうにかしたいんだけど、さっきの山田くんの話だと難しそうだよねえ。もう打つ手はないのかな」

「ないわけではありません」

「何するの?」

「私が長谷川さんの説得に出向きます」


 山田が「え」と呟きを漏らした。志穂は構わず話を進める。


「一週間というリミットがあり、その間はなるべく穏便に話を進めようと、長谷川さんから良く思われていない私は表に出ませんでした。ですがリミットを超えた今となっては、そのようなことを言っている場合ではありません」

「待ってくださいよ、志穂さん」


 山田が今度は堂々と割って入ってきた。さすがに無視できず、志穂も横を向く。


「なに」

「無理っすよ。志穂さん超警戒されてるって言ったでしょ。長谷川さん、『山ちゃんがいなかったら十日もたなかったわ』とか言ってるんすからね」

「じゃあ警戒されてない山田くんに任せれば、この状況がどうにかなるの?」


 声に棘が出た。そしてそれを引っ込める気も、今は起きない。


「この一週間、山田くんに任せてもどうにもならなかったでしょ。違う?」

「それはそうっすけど、志穂さんはもっとダメなんすよ。今、長谷川さんの一番近くにいるオレの言うことを信じて下さい。これでもちょっとずつ心開いて貰ってる感じはあるんで、もう少し待ってくれれば――」

「だからその待つ時間がないの! 話聞いてた!?」


 苛立ちが頂点に達し、口調と声調が爆発した。山田がビクリと両肩を震わせ、日出社長が仲裁に入る。


「まー、まー、志穂ちゃん。山田くんだって、志穂ちゃんの足を引っ張りたいわけじゃないんだからさ」


 いやらしい笑みを浮かべ、日出社長が自分の両手を両胸の上に当てた。


「せっかく便利なものついてるんだから、揉んで落ち着いたら?」


 ――どうして。

 どうしていつも、なのだろう。いつでもどこでも誰でもこう。ただ性別が違うだけで人を人として見ない。癇癪を起こした子どもを大人があやすように、落ち着きを失くしたペットを人間が撫でるように、感情の無効化と矮小化ばかりを考えて、向き合うことを徹底的に避ける。


 間の抜けたポーズの日出社長から視線を外す。眼球を横に動かし、隣の山田がどういう表情をしているのか、その目で確認しようとする。


 山田は口元を抑え、愉快そうに笑っていた。


「――つまんねえんだよ!」


 ローテーブルを手のひらで思い切り叩き、志穂はソファから立ち上がった。テーブルに置いてあるステンレスの灰皿が揺れ、キンキンと耳障りに鳴く。日出社長と山田に呆けた顔で見上げられながら、志穂は応接室中に響き渡る大声で吼えた。


「そうやって事あるごとに人のことを馬鹿にして! こっちは真面目に考えてるんだから真面目に向き合え! 女だからって舐めてんじゃねえぞ!」

「いや、志穂さん。社長はそういうつもりじゃ――」

「あんたも!」


 口を挟んできた山田を睨みつける。山田がソファから転げ落ちそうなぐらい、大きく身を後ろに引いた。


「社長がクソみたいなセクハラジョーク飛ばしてる時、知らんぷりしたり、一緒になって笑ったり……そういうの同罪だって分かってんの!?」

「同罪って……オレは別に」

「それが罪だとすら思ってなかった?」


 山田が息を呑んだ。志穂はだらりと両手を下げ、動きを止めたステンレスの灰皿に呟きを落とす。


「でしょうね。知ってた」


 志穂は踵を返し、日出社長と山田に背を向けた。そのまま応接室の出入り口に向かい、ドアノブに手をかける。ドアが軋みながら開く音と、日出社長の呼びかけが同時に志穂の耳に届いた。


「志穂ちゃん」

「今日は早退します。お疲れ様でした」


 早口で言い切り、応接室から出て玄関に向かう。玄関から外に出ると、薄灰色の雲で覆われた空から、しとしとと霧のような雨が降り注いでいた。秋雨じゃ、濡れて行こう。戯曲の台詞をもじった粋な言葉が脳裏に浮かび、今の心情とのあまりにマッチしていなくて苦笑いがこぼれる。


 雨の中をあてもなく歩いていると、ボトムスのポケットでスマートフォンが震えた。取り出して社長からの電話であることを確認し、通話を強制的に切る。そのまま立ちすくみ、ホーム画面に戻ったスマートフォンのディスプレイを雨粒が埋め尽くしていくのを眺めながら、これからどうすればいいのだろうとぼんやり考える。


 靄のかかった頭に、一人の女性の顔がふっと浮かんだ。


 濡れたディスプレイをシャツで拭き、指先を動かしてLINEのアカウントにコールをかける。もしかしたら出てくれないかもしれない。そんな志穂の心配をよそに相手はすぐにコールを取り、電波越しに話しかけてきた。


「志穂ちゃん?」


 スマートフォンを耳に当て、唇を開く。張りつめていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


「尚美さん。私、ダメでした」


 頬を濡らす水に、雨粒以外のものが混ざり始めた。


「私の失敗を願ってたって、言ってましたよね。泣き言を聞きたかった、みじめな姿を見て安心したかったって。望み通りになりましたよ。今なら、いくらでも尚美さんを満足させられます」


 何がいけなかったのだろう。何が悪かったのだろう。何が。何が。


「私、会社を辞めようと思います。だから尚美さんのポジションを取ることもありません。うちは人手不足だから、いきなり一人抜けて、日出社長も早く育休を止めて戻ってきてくれって言うと思いますよ。それはそれで困るかもしれませんけれど」


 巨大なトラックが、志穂の立つ歩道の傍を駆け抜けていく。タイヤに跳ね上げられた水しぶきが全身にかかった。冷えて固まる耳たぶを、スピーカーから届く振動がじんわりと揺らす。


「志穂ちゃん」


 斎藤の声は、かつて新入社員として接していた頃のように、力強く志穂の鼓膜に響いた。


「今から、うちに来られる?」

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