接近

 犬の散歩は、一時間ほど続いた。


 結局、散歩中に長谷川が自分から発言することは一度もなかった。ただ、春日や春日の父親から話を振られた時は普通に受け答えをしていたので、それなりに素材は集まった。交流に乗り気でない長谷川のアンニュイな表情は、日の傾きかけた片田舎の街並みに似合っていて、皮肉にも画としては良いものが撮れた。


 散歩から帰った後は、夕食の準備をする母親を撮った。母親は志穂と山田の分の食事も準備してくれており、気を使わせて申し訳ないと謝る志穂に「私が嫌なだけだから気にしないで」と答えた。ついでに志穂と山田で撮影を交代しながら食卓も一緒に囲まないかと誘われたが、さすがにそれはドキュメンタリーが不自然になるので断った。


「こういう風に大人数の料理を作っていると、懐かしくなるの」


 フライパンで大量の豚肉を炒めながら、母親が呟きをこぼす。


「もう何年も、私とお父さんの料理しか作ってないから、たまにこういう機会があると張り切って作りすぎちゃうのよね。それでだいたい余るんだけど、去年のお盆は樹くんが来て、無理して全部食べてくれた。そういう気が利く子なのよ、あの子」


 気が利く。意外な評価だ。少なくとも志穂の前ではずっと、自由な長谷川と気を回す春日という分担だった。


「単純に、長谷川さんが大食漢なわけではないんですか?」

「佑馬が樹くんに『今日はすごい食べるな』って言ってたの。あの子は、私の料理が美味しいからたくさん食べているみたいな意味で言ったんでしょうけど、私はそうじゃないと思った。そう言われた時の樹くん、困っていたから」


 母親の顔色がわずかに翳った。肉を炒める菜箸の動きも鈍くなる。


「出されたものはきちんと食べるって、お客様の発想よね。恋人の実家なんてそんなものでしょうけど、今日は二回目なんだからリラックスしてくれると嬉しいわ」


 ――難しいだろうな。


 散歩中の長谷川を思い返し、志穂の胸中に否定の言葉が浮かぶ。無理して食事を平らげるぐらいには気を使うのだから、好きか嫌いかで言ったら「嫌い」ではないのだろう。だけど「違う」のだ。自分はここにいるべきではないと感じていて、その違和感を無くすのはきっと、嫌いを好きに変えるより難しい。


 トントン。


 不意に背中をつつかれ、志穂は振り返った。振り向いた先にいた山田が、志穂の背中をつついたであろうひとさし指を、キッチンに隣接しているリビングに向ける。リビングでは春日が所在なさげに立ちすくんで志穂たちを見つめており、明らかに何か用事がありそうな様子だった。


「どうしました?」


 歩み寄り、尋ねる。春日がキッチンにいる母親と山田を伺いながら、声をひそめて話しかけてきた。


「相談があるんです。他の人に聞かれたくない話なので、部屋の外に出たいんですけど、いいですか?」

「構いませんよ」

「ありがとうございます。では」


 春日と志穂でリビングを出る。出た途端、したしたとフローリング床と爪がぶつかる音を立てながら、犬が志穂たちのもとに駆け寄ってきた。春日は犬を一瞥したものの、撫でられるのを期待して目を輝かせる犬を無視し、志穂と向き合う。


「茅野さん。僕の会社の撮影に来た時、今は化粧品会社の広告コンペが一番大きな案件だって話があったこと、覚えてますか?」

「覚えてます。お昼をご一緒した時、久保田さんが仰っていた話ですよね」

「もし僕がそのコンペに勝ったら、ドキュメンタリーの中にその化粧品会社の取材を組み込んで頂きたいのですが、それは可能ですか?」


 思いも寄らない話に、志穂の反応が遅れた。我慢しきれなくなった犬が春日に飛びつき、春日は「あとでな」と犬を引きはがしてから言葉を続ける。


「さっき先方から電話があって、デザインの採用について茅野さんたちが取材してくれるならコンペで有利になると匂わせてきたんです。ただドキュメンタリーの撮影と僕らの仕事は全くの無関係ですし、何か問題が発生するようなら良くないと思って、まずは茅野さんだけに話をさせて頂いたんですけど……どうでしょう?」

「……私たちとしては、撮った映像を必ずドキュメンタリーに使うという約束はできない前提で、先方が問題ないと仰るのであれば特に困ることはありませんが」


 語尾に含みを持たせる。志穂が口にしなかった言葉を春日は的確に読み、自分を嘲るように笑った。


「僕なら気にしてませんよ。仕事は『使えるものは使え』の精神でやってますから」


 嘘だ。本当に気にしていないなら、その答えは出て来ない。まず志穂の言わんとしていることが理解できなかっただろう。本音では勝ち方に拘りたいからこそ、勝ち方に拘らなくていいのかという心の声が聞こえた。


 春日が口にしたように、春日の仕事とドキュメンタリーの撮影は無関係だ。それはつまり、撮影を前提にコンペを勝ち抜いた場合、評価されたのは春日の仕事ではないということになる。「セクシャル・マイノリティのデザインした広告」というレアリティをつけつつ、テレビに宣伝を流すことができる。それが納品先である化粧品会社の狙いであり、つまり評価されたのは、春日の属性だ。


 その悔しさが、撮った映像そっちのけで撮った人間にフォーカスされたことが何度もある志穂には理解できる。若い女が撮ったというだけでまともに評価しない人間も、若い女が撮ったというだけでやたらと評価する人間も等しく腹が立つ。クライアントから、志穂の写真を使いツイッターで「私が撮りました」という主旨のアピールをしても良いかと尋ねられた時は、野菜農家じゃねえんだぞという罵倒が歯の裏まで出かかった。


 同じ世界観。違う世界観。重なる部分と、重ならない部分。


「それじゃあ、先方に許可を取れたと連絡してきます」


 春日がくるりと踵を返した。志穂は咄嗟にその背中に声をかける。


「あの」


 春日が立ち止まり、首を回して志穂の方を見やった。傍観者として、心の在り様をありのままに撮るべき自分が、一体どこまで踏み込んで良いのか。考えながら控えめに話し始める。


「私は春日さんに『近い』ので、葛藤が何となく分かるんですけど……」


 同じ、とは言えなかった。すうと息を吸い、声の調子を整える。


「どのデザインを採用するか悩むレベルに達しているからこそ、差別化要因として上がった話だと思いますし、そこは自信を持っていいと思いますよ」


 頭で考えていた以上に、偉そうな物言いになってしまった。「あとで」と言われてじっとしていた犬が、もう我慢できないとばかりに春日に飛びつく。春日はわずかに足元をよろめかせた後、しゃがんで犬の頭を撫でながら、志穂を見上げて微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」

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