世界観
春日の実家は、北関東の地方都市にあった。
家に着いた志穂は、まずその大きさに驚いた。春日の両親の車と志穂たちの社有車を悠々と停められるガレージに、バーベキューどころかテントを張ってキャンプも出来そうな庭。建物の大きさも『ライジング・サン』のスタジオ並みだ。今は春日の両親しか住んでいないそうだが、昔は春日と春日の弟、そして亡くなった父方の祖父母も同居していたらしく、その名残がサイズ感に垣間見える。
「でかい家っすねー」
格子状の門扉越しに家を見上げ、カメラを肩に担いだ山田が呟きを漏らした。春日たちのマンションを初めて訪れた時と同じ反応。長谷川が山田の方を向き、楽しそうに茶々を入れた。
「山ちゃんの部屋の百倍ぐらいありそうだよな」
「オレの部屋どんだけ狭いんすか」
「足の踏み場なかったじゃん」
「それは汚いだけっす」
山ちゃん。何度聞いても複雑な気分になる呼び方だ。撮影対象と親睦を深めるのは悪いことではない。だがそうなるに至った経緯があまりにもお粗末で、一歩間違えていたらどうなっていたことかと、考えるだけで冷やりとする。
一緒に飲むところまでは、まあいい。だが酒の場で二人をギクシャクさせる話題を出して諍いを促し、それをその場で収められず長谷川だけを自宅に泊めるのは論外すぎる。一泊して酔いを醒ました長谷川はすぐに春日の家に帰り、どうにか元の形に収まったが、下手したら撮影が終わっていた。日出社長は山田に活躍の機会を与えたかったようだが、逆に前に出してはいけないという思いが強まる一方だ。
「茅野さん、押していいですか?」
門柱のインターホンに指を伸ばし、春日が尋ねる。志穂は山田のカメラが稼働しているのを確認して、首を縦に振った。
「いいですよ」
「分かりました。では」
春日がインターホンを押す。ピンポーンと軽い音が響き、しばらく経ってから、門扉の向こうで玄関のドアがゆっくりと開き出した。別に使えないなら使えないで構わないが、なるべくなら撮った映像を使えるように出て来て欲しい。そう願いながらドアをじっと見つめる。
黒い塊が、玄関から飛び出して来た。
ガシャンと音を立て、塊が門扉にぶつかる。バーニーズ・マウンテン・ドッグ。スイス原産の大型犬だ。「ハル」という名前まで含めて春日から存在は聞いていたが、いざ目の当たりにすると思っていたよりも大きくて迫力がある。
前足を門に乗せる犬の後ろから、老年の男女がゆっくりと歩み寄って来た。白髪の男性が春日の父親で、黒髪の女性が春日の母親。こちらも春日から事前に予習済みだ。門越しに犬の頭を撫でる春日に、父親が声をかける。
「元気だったか?」
「うん。そっちこそどうなの」
「何ともないぞ」
「嘘おっしゃい。肝臓の数値が悪いからお酒を控えるよう、お医者さんから言われたばっかりでしょ」
母親が口を挟む。父親が視線を泳がせ、逃げるように長谷川に声をかけた。
「樹くんも元気だったか?」
「まあ、ぼちぼちって感じです」
「そうか。まあ、とりあえず中に入ろう。暑いだろう」
外に出ないよう犬を抱え込みながら、父親が門扉を開いた。まずは春日たちが敷地に足を踏み入れ、その後に志穂と山田が続く。全員が敷地内に入り、父親が門扉を閉じて犬を放すと、犬はちぎれそうな勢いで尻尾を振りながら志穂に突進してきた。
「わっ!」
大きな身体に寄りかかられ、玄関の傍でバランスを崩しかける。門扉から父親が小走りに駆けてきて、また犬を抱え込んで抑えた。
「すいません。大丈夫ですか」
「大丈夫です。人懐っこくて、かわいい子ですね」
「番犬としては役に立ちませんがね」
父親に頭の後ろを撫でられ、犬がうっとりと目を閉じた。そうやってしばらく犬の興奮を落ち着かせ、尻尾の動きが完全に止まったのを見て犬を放す。犬は再び志穂に飛びかかることなく、母親がドアを開けて待っている玄関に向かってしずしずと歩いていった。
「ところで」父親が志穂の方を向いた。「あなたが茅野さんですか?」
改めて尋ねられ、自己紹介を済ませていないことに気づく。志穂は「はい」と答えながらショルダーバッグに手を入れ、名刺を準備して父親に差し出した。
「映像制作会社『ライジング・サン』の茅野志穂と申します。佑馬さんからお聞きしているとは思いますが、本日はドキュメンタリー制作の一環として色々と撮影させて頂きますので、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。具体的には、どのようなものをお撮りになるつもりなのですか?」
「お父さん。そういう話は中でやってちょうだい」
玄関のドアを抑えている母親からクレームが届く。父親が首をすくめ、話を中断して玄関に向かった。自由な夫と手綱を握る妻。ここに来る道中、春日から「うちは母の方が強いので、機嫌を取るなら母を優先した方がいいと思いますよ」と忠告されたことを思い出す。
屋内に上がった後は、まず来訪者全員で春日の祖父母に線香を供えた。それから春日の案内で家の中を軽く撮り、すぐに両親のインタビューに入る。春日と長谷川に席を外してもらい、和室の漆塗りテーブルを挟んで両親と向き合い、インタビューを進めて言葉を引き出す。
春日の両親は、絵に描いたような「いい人」たちだった。
同性愛者であることをオープンにしている知人はいない。同性愛に寛容な地域や時代に生まれついたわけでもない。それでも我が子がそうだと分かればすんなりと受け入れるし、我が子の恋人もフラットな目で見ることができる。春日の実直な性格のルーツが分かった。確かにこの両親の下で思春期を過ごしたならば、曲がる方が難しい。
「――では、インタビューはこれで終わりにしたいと思います。お付き合い頂き、ありがとうございました」
インタビューが終わった。それから少し雑談を交わし、母親が「じゃあ私は夕食の準備をするから、お父さんはハルをお願い」と和室を離れる。父親がのっそりと立ち上がり、正座したままの志穂を見下ろして尋ねた。
「これから私は犬の散歩に出ますが、茅野さんたちはどうなされますか?」
「そうですね……散歩には佑馬さんたちも同行されますか?」
「呼べば来ると思います」
「では、そうして貰えますか。佑馬さんと樹さんが一緒に犬を散歩させている風景を撮りたいので」
「分かりました」
父親が和室から出て行き、すぐに春日と長谷川を連れて戻って来た。それからキッチンで料理をする母親の傍をウロウロしていた犬にリードを、撮影用のワイヤレスマイクを春日のカッターシャツの胸ポケットにつけ、リードの持ち手を春日に預けて外に出る。閑静な住宅街を歩きながら言葉を交わすのは、主に春日と長谷川の恋人ではなく、春日と父親の親子だった。
「お前がリードを握っていると、ハルも大人しいな」
「父さんだと違うの?」
「あっちこっち引っ張って来るよ。日に日に散歩がきつくなる」
「それは単純に父さんの体力が落ちてるんじゃない?」
「そうか。まあ、俺ももう年だからな」
一向に会話に参加しない長谷川にやきもきしつつ、少し離れた場所から三人にカメラを向ける。やがて長谷川が志穂たちの方を振り返り、そのまま歩み寄って来た。散歩する三人と撮影する二人という構図が崩れ、志穂は戸惑いながら尋ねる。
「どうしました?」
「親子で積もる話してるから、邪魔しない方がいいかと思って」
「長谷川さんたちのドキュメンタリーなので、むしろ積極的に割り込んで貰いたいんですけど……」
「そっちはそうだけど、あっちは割り込まれても困ると思いますよ」
「そんなことないですよ。春日さんのお父さんは長谷川さんのことを、もう一人の息子として迎えたいと言っていたぐらいなんですから」
交流に前向きになってもらいたくて、明るい情報を開示する。長谷川が「もう一人の息子ねえ」と呟き、履いているデニムのポケットに手を突っ込んだ。うっすらと雲の張った青空を見上げ、念仏を唱えるように呟きを漏らす。
「デカい家、デカい犬、優しい親」長谷川のまぶたが、ほんの少し下がった。「なんか、違うんだよなあ」
意味深な言葉を耳にして、志穂は目を丸くした。反射的に問い返す。
「違う、とは?」
天を仰いでいた長谷川が顔を下げ、志穂に視線をやった。何かしらの答えを期待して志穂は黙る。だけど長谷川はすぐに山田の方を向き、またしても意味深な言葉をぶっきらぼうに言い放った。
「山ちゃんなら分かるでしょ」
驚く山田を尻目に、長谷川が早歩きで春日たちのところに戻る。あっちよりこっちの方が面倒だと思われたのだろう。気に食わないものを感じながらも、とりあえずは山田に話を振る。
「山田くん。今のどういうこと?」
「……たぶん、でいいっすか?」
「いい」
「要するに、長谷川さんは春日さんの実家みたいな雰囲気に馴染めないタイプの人間なんすよ。揃いすぎてるっていうか、恵まれすぎてるっていうか……」
山田が志穂から目を逸らした。言いにくいことを言おうとする素振り。
「前、志穂さんが長谷川さんに大学の話を振って、長谷川さんが大学行ってないって分かって気まずくなったことあったじゃないっすか。あれっすよ。普通に生きてれば大学に行くと思ってる志穂さんと、大学に行ってない長谷川さんは世界観を共有できないんす。それと同じことが、春日さんの実家と長谷川さんの間で起こってるんじゃないっすかね」
「だから、恵まれてる私には分からないけど、大学に行ってない山田くんなら分かるって言ったの?」
「……たぶん」
山田がもごもごと口ごもる。お前はブルジョワだから庶民の気持ちが分からない。そう言ったも同然なことを言い、申し訳なさを感じているのだろう。確かに少し前の志穂ならイラついたかもしれない。だけど今は、そういう「見えている世界が違う」というようなことを言われると、別のことを考えて苛立ちよりもやるせなさを感じてしまう。
志穂の失敗を願ってしまうと泣いた斎藤に、志穂はメンタルクリニックへの通院を勧めた。
斎藤は「行く」と答えた。しかし「行った」という報告は志穂に届いておらず、そして志穂から「行きましたか?」と尋ねてもいない。触れるのを恐れ、見ないふりをしたまま、今日に至っている。
山田の言葉で言うならば、志穂は斎藤と同じ世界観を持っていると思っていた。長谷川が大学を卒業した志穂や春日を恵まれていると感じ、山田に親近感を覚えていたように、志穂は男である日出社長や山田を恵まれていると感じ、斎藤に親近感を覚えていた。だけど世の中は、そんな単純には出来ていない。それが斎藤の件でよく分かった。
人の数だけ世界観がある。それは部分的に重なることはあっても、完全に一致することはない。同じゲイである春日と長谷川の世界観が違うように、同じ女である志穂と斎藤の世界観が違うように、大なり小なりズレが生じる。
このドキュメンタリーは、どういう世界観で創ればいいのだろう。
前方を見やる。仲良く話し込む親子と、少し離れて歩く長谷川の背中が視界に入る。どこかの家が夕食を作っているのか、香ばしさと懐かしさに満ちたカレーの匂いが、志穂の嗅覚をツンと刺激した。
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