ヒトリノ夜

 リビングの電気をつけ、部屋の隅のアクアリウムが視界に入った途端、強烈な疲労が佑馬の両肩に襲いかかって来た。


 やっと帰って来た。まだ大して夜も更けていないのにそう思う。このままベッドに直行すれば気持ちよく眠れそうだ。もっとも、魚たちに餌をやらなくてはならないことを抜きにしても、そんなことをしたら明日の目覚めと仕事に差し支えそうなのでやらないが。


「ただいま」


 水槽に近寄って声をかける。フレーク状の餌が入った筒を水槽の上で振り、中身をパラパラと水面にばら撒く。美しい色をした熱帯魚たちが餌を食べる姿を眺めて、ゆっくりと静かに酔いを醒ます。


 魚たちのケアの後は、自分のケアだ。風呂場に出向いて給湯を開始し、寝室でスウェットに着替える。風呂に湯が溜まるまでの時間をどうしようか考えて、買ったきり読んでいないBL本に手を出すことにした。本棚から本を取り出し、ベッドに横向きに寝転がってパラパラとめくる。


 妻を亡くし一人で子どもを育てる中年男と、その男に惚れ込んで彼の生活に潤いを与える若い男の物語。子育てBLというやつだ。読み進めながら佑馬は今日の撮影のこと、そしてBLを読むと言っていた茅野のことを思い返し、あの人は触れないジャンルだろうなと考える。居酒屋で山田は茅野について「結婚願望がない」と評していたが、佑馬の目から見てもそれは正しいように思える。


 だけど佑馬は、この手の作品を好んで読んでいる。その根底にあるものが憧れであることも理解している。憧れは憧れのまま、きっとこの手に収まることはないのだろうということも。


 ――私は要らないの。


 同じセクシャル・マイノリティである片桐は、講演会の打ち上げで子どもは要らないと言い切った。そして佑馬にとってそれは意外ではなかった。具体的な話をしたわけでは無いが、片桐が家族という単位を忌諱するタイプであることぐらい、長年のつき合いで想像がつく。だけど同時に、こうも思った。


 でも、作る選択肢があるのはいいですよね。


 僕は欲しいんですよ。すごく欲しいんです。でも今の日本では里親になることすら容易いことじゃない。だからそういう中でポンと、自分たちで産むという選択肢を取れるのは羨ましいです。僕だってそう出来るなら、そうしたい。


 あの感情を口にしていたら、片桐はどう反応しただろう。「それはそうね」と流したか。あるいは「そうは言うけどね」と反論したか。もし後者なら揉めたかもしれない。子を持つことに関しては局所的にレズビアンの方が恵まれているだけで、基本的には女性差別を受けないゲイの方が生きやすい。そして片桐はそういう違いに注目し、それをどうにかしようとする団体の代表者だ。


 取りとめなく、思考があちこちに揺れ動く。まるで内容に集中できず、佑馬は本を閉じてベッド脇のサイドテーブルに置いた。そして代わりにスマホを手に取り、LINEに届いていた新着メッセージを確認する。送り主は、母。


『お盆は予定通りでいいの?』


 指が止まった。お盆は樹と共に帰省し、その様子を撮影する。茅野との顔合わせで決まったそのプランを、佑馬はその日のうちに家族に話して承諾を得ていた。とはいえ、それから詳しい話はしていない。もうお盆までおよそ半月。向こうとしては気になるのも分かる。


 佑馬は上体を起こした。そして一人分のスペースが余っているベッドを眺め、昨日そこに眠っていた男のことを考える。山田がどのような部屋に住んでいるかは知らないが、樹の申し出に「オレんち、めっちゃ狭いっすよ」と難色を示していたぐらいなのだから、このベッドより寝心地が良いことはないだろう。それでも樹は外泊を選んだ。佑馬と同じ空間で夜を過ごしたくない。ただその一心で。


 こんな状態で、樹を実家に連れて行けるのだろうか。去年、まだ仲の良かった頃ですら、樹はやや居心地悪そうにしていた。恋人の実家なんておしなべて居心地の良いものではないだろうが、実家どころか同居先すら避けるようになった今、そんな一般論では済まない拒否感を抱いていてもおかしくない。


 いや、そもそも、樹は帰ってくるのだろうか。


 山田はドキュメンタリーの撮影を進めるため、必死に樹を説得するだろう。そこで樹が、自分たちが元から仲違いしていたことを暴露したら、その後はどうなるのだろうか。今さら後には退けないと、今度は茅野や山田も巻き込んで嘘をつき続けることになるか。あるいは全てご破算になるか。


 分からない。考えられない。考えたくない――


 ピー。


 甲高い電子音が、風呂の給湯完了を告げた。佑馬は母に『いいよ』と返信を打ち、着替えとバスタオルを取るためにベッドから下りてタンスに向かう。大の男が二人並んで寝るためのベッドは、下りてから改めて俯瞰するとやたら大きくて、オブジェクトが目立ちすぎてメッセージが伝わらないダメな広告のようだった。

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