親睦会
「それにしても尚美ちゃんのおっぱい、本当にすごかったねえ」
開いた両手を自分の胸部に乗せ、助手席の日出が運転席の山田に話しかける。ハンドルを握る山田は視線をフロントガラスに向けたまま、「そうっすねえ」と曖昧な笑みを浮かべた。
「志穂ちゃんよりおっきかった気がするんだけど、どう思う?」
「うーん。ちょっと分からなかったっす」
「そもそも志穂ちゃんって何カップなのかな。山田くん、聞いたことある?」
「さあ……」
上機嫌な日出と困っている山田をバックミラー越しに観察しながら、佑馬は話が自分たちに飛んでこないことをひたすらに祈った。だが祈りは届かず、日出が後部座席を振り返って「君たちはどう思った?」と語りかけてくる。どうも何も、セクハラですよ。その言葉しか出てこない佑馬に代わって、隣の樹が質問に答えた。
「見てなかったから分からないです。俺ら、そこ興味ないから」
「あー、そっか。君たちは男性のどういうところをよく見るの?」
「俺は腕見ますね。ひょろすぎると萎えるんで」
「へー。春日くんは?」
「……鎖骨とか」
「なるほど。面白いねー」
人の性嗜好を面白がらないで下さい。刺々しい返しが飛び出しかけたが、すぐに日出が山田との会話に戻り未遂に終わった。佑馬は座席の背もたれに身を預け、ささくれ立った心を落ち着かせる。聞いてはいたが、想像以上だ。久保田に愚痴をこぼしていた茅野を思い返し、今はこの場にいない彼女に同情を捧げる。
日出がほとんどワンマンショー状態で語っているうちに、佑馬たちの住むマンションが近づいてきた。道端に車が停まってすぐ、佑馬は一刻も早くこの場を離れようと後部座席のスライドドアを開ける。しかし半身を外に出したところで、日出に止められた。
「春日くん。ちょっと待って」
「なんですか?」
「今日、山田くんと一緒に飲んでくれない?」
突拍子もない提案に、佑馬は目を丸くした。日出はそんな佑馬を置き去りにし、同じように驚いている山田に話しかける。
「山田くんも大丈夫だよね。まだまだ長く付き合う人たちなんだから、この機会に仲良くしておきなさい」
「はあ……」
「車は僕がスタジオまで運んどくからさ。ほら、降りて降りて」
虫を追い払うように、日出がしっしと手を振った。山田は腑に落ちない顔をしながらも、佑馬や樹と同じように歩道に降り、空いた運転席には日出が座る。日出が助手席の窓を開け、運転席から歩道に向かって大きな声を放った。
「それじゃあ、またねー」
車が発進した。すぐに車体が見えなくなり、山田がはーと大きく息を吐く。樹が車の去った方向を眺めながら、山田に声をかけた。
「無茶苦茶なじーさんだな」
「思いついたことを、思いついた時に、思いついたままやる人なんで……」
「まあ、そうじゃなきゃ今日も来ねえわな。そんでどうする? 飲み行く? 俺は行ってもいいけど」
「じゃ、行きましょうか。春日さんはどうしますか?」
「……行くよ」
そんなに行きたくないと思いつつ、佑馬は付き合いで肯定を返した。するとすぐに樹が「駅前の居酒屋でも行くか」と言って歩き出し、山田も迷うことなく「空いてるといいっすね」とその後についていく。確かに日出は強引だが、樹も山田も変に適応力がある。佑馬としては、この二人にもあまりついていける気がしない。
ふらふらと歩いているうちに、駅前の大衆居酒屋に着いた。四人がけの席に、佑馬と樹が横に並んで山田と向かい合う形で座り、まずは生ビールの中ジョッキ三杯とつまみをいくつか頼む。まずはすぐにビールが届き、樹が自分のジョッキを持ち上げてテーブルの中央に差し出した。
「そんじゃ、お疲れ」
「お疲れさまーっす」
「お疲れ」
樹と山田が勢いよくジョッキをぶつけ、佑馬はそこにコツンと自分のジョッキを合わせた。そのまま口にビールを運び、その雑な苦さに顔をしかめる。チェーン店の居酒屋に過度な期待を抱いていたつもりはないが、それにしても美味くない。話の肴として存在する飲み物だ。
「ところで俺ら何を話せばいいの? これ、君の修行みたいなもんでしょ?」
「そうっすね……社長、オレがカメラマン以外の経験を積ませて貰えてないんじゃないかって気にしてるんすよ。だから今日も様子を見に来たり、こういう場を用意したりしてるわけっす」
「そんならもうちょっと自然にやりゃいいのに」
「それが出来る人に見えます?」
「見えねえな」
樹が笑い、山田も笑う。佑馬は流れに乗り切れず、ビールと一緒に店員が運んで来たお通しの漬物に手を伸ばした。しかしやはり、美味くない。樹が家で出してくる漬物の方が美味いのはいったいどういう理屈なのだろうか。樹だって別に自分で漬けているわけではないのに。
「でも君はカメラマンなんだから、カメラマンやってればいいんじゃないの」
「オレだっていつまでもカメラだけやってるつもりはないっすよ。いつかは志穂さんみたいにディレクターとかやりたいと思ってるっす」
「じゃあ君から茅野さんにそう言って、色々やらせて貰えばいいじゃん」
「……志穂さん、オレへの信用ないんで」
「あの姉ちゃん、他人を信用しないタイプだよな。分かるわ」
「気が強いんすよね。もーちょっとオレを頼ってくれていいと思うんすけど」
「まあ君からしたら、好きな女には頼りにして貰いたいわな」
会話が途切れた。
タイミングが良いのか悪いのか、店員が最初に頼んだつまみを持ってきた。場の空気が仕切り直される。やがて店員が去った後、山田がつまみのお好み焼きを一口食べて、おずおずと樹に尋ねた。
「……どうして分かったんすか?」
「どうしてって、見てれば分かるでしょ」
樹がこともなげに言い放つ。分かっていなかった佑馬は黙ってシーザーサラダに手を伸ばした。正確には分かっていなかったというより、山田の存在自体をほとんど気に留めていなかったのだが。
「そんで、上手く行ってんの? 見た感じダメそうだけど」
「その通りっすよ……せっかく撮影一緒にやることになったんで、いいとこ見せるぞって思ってたんすけど、なんかもう話せば話すほどダメで……」
山田が佑馬に視線を送って来た。佑馬はビールを飲む仕草でその視線をかわしたが、山田は構わず話しかけて来る。
「春日さんの職場に撮影に行って、上司の人と話したじゃないっすか」
「久保田さんね。それがどうかした?」
「あの時の志穂さん、妙にテンション高いと思いませんでした?」
「さあ……俺は普段の茅野さんを知らないから」
「高いんすよ。なんか上機嫌で、ウキウキしてて。そんでオレ、『ああいう男がタイプなんですか?』みたいなこと聞いちゃって」
「うわっ、めんどくせー男の定番じゃん。怒られたでしょ」
樹が楽しそうに口を挟んできた。反対に、山田は肩を落とす。
「怒られました。『女が男の前で機嫌がいい時は恋愛』は偏見だって」
「だよな。当たってても外れてても怒られるんだから、そういうこと言っちゃダメだって」
「そうなんすよね……頭では分かってるんすけど……」
樹と山田が盛り上がる様子を、佑馬は飲食を進めながら冷めた目で眺める。自分が話に入りきれないことと樹が入りきっていること、どちらもじんわりと不愉快だ。こんなにも屈託なく笑って話す樹の姿、少なく見積もって半年は見た記憶がない。
佑馬は居たたまれなさから酒に逃げ、樹と山田は話と一緒に酒を進める。佑馬は二杯目からカルピスサワーを頼んでみたが、これもあまり美味くはなかった。不味いではなく美味くないで留まる辺りがコツなのだろうか。アルコールの影響を受けて火照っていく頭で、そんなとりとめのないことを考える。
「志穂さん、たぶん、結婚願望とかないんすよね」
山田が嘆きの言葉を口にした。まだ幼さの残る顔が赤く染まり、幼い印象がさらに強化されている。
「今日も赤ちゃんかわいいとか言ってましたけど、欲しいとは思ってないんだろうなってのが分かるんすよ。どうしたらその気になるんすかね」
「そこは本人次第じゃねえの」
「それはもちろん、そうっすけど……」
山田が赤ら顔を佑馬に向けた。酔いの影響か、目がとろんとしている。
「春日さんは子ども欲しいんすよね? どうしてっすか?」
踏み込んだ質問に、佑馬は軽い苛立ちを覚えた。確かに撮影中に子どもが欲しいとは答えたが、それは撮影だからだ。個人的な酒の席で安易に尋ねていいことではないだろう。
「君は欲しくないの?」
「オレっすか? いつかは欲しいと思ってますけど……」
「それと同じだよ。分不相応な夢を見てると思われるかもしれないけれど、欲しいものは欲しいんだ」
突き放すように答え、カルピスサワーを飲む。山田が肩を竦めて「別にそうは思ってないっすけど……」ともごもご口を動かし、喧嘩腰で挑んだことに少し申し訳なさが芽生えた。フォローを入れようと、カルピスサワーのジョッキをテーブルに置いて体勢を整える。
ぶっきらぼうな声が、右の耳に届いた。
「俺は要らねえかな」
右を向く。声の主である樹の顔は、隣の佑馬ではなく対面の山田の方に向けられていた。だけど目は山田を見ていない。ぼんやりと中空を見つめながら、独り言のように呟く。
「要らねえっていうか、子どもが俺んとこ来て幸せになれると思えねえんだよな。自分優先だし、その日暮らしだし、そもそも、ゲイだし」
最後の一言は、聞き捨てならなかった。ビールジョッキを持ち上げ、黄金色の液体を喉に送る樹に向かって声を放つ。
「別にゲイだからって、子どもを幸せに出来ないことはないだろ」
ジョッキを浮かせたまま、樹が佑馬の方を向いた。そして眉間に軽くしわを寄せて口を開く。
「ハードルは上がるだろ。どうしたって」
「それは上げてる方が悪い。だいたい、男女の夫婦は『ちゃんとした理由がないなら子どもを欲しがるな』とか『お前たちに子どもが生まれても幸せになれないから生むな』とか言われないのに、どうしてゲイはそれを気にしなくちゃならないんだ。そんなんでゲイが子どもを持つ権利を阻害されるのはおかしいだろ」
「権利じゃなくて、覚悟の話をしてるんだよ」
「じゃあ覚悟を持てばいいだろ! お前は覚悟の話をしてるつもりでも、周りは権利の話にすり替えるんだ! そういうの、いい加減に理解しろよ!」
佑馬は激昂し、声を荒げた。叫び声が周囲の喧騒を抑えつけ、ほんの短い時間だけ静寂が生まれる。樹が緩慢な動作でビールを飲み、戻って来た喧騒に合わせて言葉を吐いた。
「理解してるから、カメラの前では言わなかったんだろうが」
樹が佑馬から顔をそらし、ジョッキを勢いよくテーブルに置いた。大きな音が攻撃的な感情を雄弁に語る。対面の山田が慌てたように、深々と頭を下げながら口を挟んできた。
「あの……変なこと聞いてすいませんでした。全部オレのせいっす」
下げた頭を上げきらず、山田が上目づかいで佑馬たちを見やった。
「だから、喧嘩しないでくれると嬉しいです。オレのせいで二人が仲違いして、撮影が進まないみたいなことになったら、耐えられないっすよ」
山田の声は、頼りなく細っていた。二十歳そこそこの若者を本気で困らせていることを自覚し、佑馬の頭から熱が若干引く。むすっとした表情でテーブルに肘をつきながら、樹が山田に向かって口を開いた。
「山田くんってさ、一人暮らし?」
山田が目を瞬かせた。困惑しつつ、とりあえず聞かれたことに答える。
「はい」
「今日もこれから帰ったら一人?」
「そうっすけど……」
「ふーん」
樹が枝豆を口に放り込んだ。そして横目で佑馬をちらりと見やり、視線を山田に戻してから言葉を続ける。
「じゃあ、今夜泊めて」
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