箱の中

 ドキュメンタリーの撮影は、早々に終わった。


 春日と長谷川の「子を持つ」ということへの意識など、撮れた映像の中には光るものもあった。ただイベントそのものがどうしても突飛で、自然な形でドキュメンタリーに入れ込める気がしない。まだ撮影期間は残っているが、使うのは難しいだろうというのが、とりあえずの志穂の結論だった。


 撮影後はリビングに集まり、インスタントコーヒーを飲みながら雑談を交わした。テレビ局でADをやっている斎藤の旦那は、今は仕事が忙しくて子どもの顔を見ることすらロクに出来ていないらしい。斎藤は理解を示すような苦笑いを浮かべつつ、「誰の子だと思ってるんでしょうね」と毒を吐いていた。そして日出社長はその毒に「旦那の子なんだよね?」と、とぼけた言葉を返した。


「あ、もうこんな時間か」


 左腕にはめている銀色の腕時計を見やり、日出社長が呟いた。そしてその場の全員を見渡して尋ねる。


「志穂ちゃん、撮影はもういいんでしょ? そろそろ帰らない?」

「そうですね。あまり長居しても悪いですし」

「待って」


 解散を押しとどめ、斎藤がテーブルを挟んで志穂を見やった。


「茅野さんは残ってくれない?」

「私ですか? 別にいいですけど……」

「じゃあ、志穂ちゃんだけ居残りだね」


 日出社長が立ち上がった。そして志穂と斎藤にひらひらと手を振る。


「それじゃ、女子会、楽しんでね」


 リビングを出る日出社長に、他の男たちもついていく。やがて玄関のドアの閉ま

る音が聞こえると、斎藤が悪戯っぽい笑みを浮かべて志穂に話しかけてきた。


「ごめんね、志穂ちゃん。忙しいのに時間取らせちゃって」

「気にしないでください。尚美さんの話し相手になりに来たんですから」


 会社の人の前では、苗字で呼ぶ。


 志穂は斎藤とそういう約束を交わしている。公私の区別をつけるためではない。お互いがビジネスパーソンであることを周囲にアピールし、舐められないようにするための工夫だ。世の中には、女が女であると安心する男たちがいる。気張らないとたやすく職場の花にされてしまう。


「春日さんたち、どうでした?」


 本人がいる間は聞けなかったことを、斎藤に尋ねる。斎藤は腕を組み、少し考えこんでから答えを口にした。


「一言で言うのは難しいかな。二人ともキャラクターが違いすぎて」

「分かります。ドキュメンタリーとしてはキャラが立っておいしいんですけど、逆に立ちすぎていて困ることもあるんですよね」

「例えば?」

「服装がフォーマルとカジュアルで両極端だったりとか」

「ああ。そうなると画に面白さが出ちゃうね」

「そうなんです。それで――」


 仕事の話で盛り上がる。日出社長は女子会と言っていたが、その実態は打ち合わせだ。志穂と斎藤の会話はだいたいこういう流れになる。そもそも志穂の経験上、恋人の有無やら好きな異性のタイプやらをよく聞いてくるのは女より男の方なのだが、なぜだかだいたいの男はその自覚がない。


「そういえば尚美さん。子どもの頃、ひな祭りは好きでしたか?」

「ひな祭り? 好きでも嫌いでもないって感じだったけど……どうして?」


 聞き返され、志穂は片桐の話を語った。LGBTというマイノリティの中にも存在する、女性ならではの問題や悩み。ここまでの中でも特に共感性の高かった撮影について語っているうちに、言葉が勢いを増す。


「私、春日さんたちの日常を通じてLGBTへの理解を深めると同時に、社会のジェンダーバイアスにもメスを入れたいんですよ」


 会社の誰にも話していない構想を、志穂は力強く語った。隠していたというよりは、話しても無意味だと思って黙っていた。少なくとも日出社長や山田にはまるで響かないだろう。だけど斎藤は違う。語る意味がある。


「世界を変えるような映像を撮るのが私の夢だって話、しましたよね。私がこの世界で一番変えたいところはそこなんです。男だからとか女だからとか、そういうものを取っ払いたい。そしてこの仕事を通じてなら、それが実現できる。観た人の心を変えて、行動を変えて、世界を変えることができる。そんな気がするんです」


 熱を込めて力説したら、喉が渇いた。志穂はカップを持ち上げて、だいぶ冷めたコーヒーを胃に送り込む。カップをソーサーの戻す時に立った硬い音に、斎藤の声が被せられた。


「いい仕事してるのね」

「はい。斎藤さんの分も頑張りますので、安心して休んで下さい」

「日出社長もそれ言ってたね。志穂ちゃんが二人分頑張るって」


 斎藤が苦笑いを浮かべた。そして目の前に置いてある自分のコーヒーカップに視線を落とし、わずかに唇を開く。何か言いたげな様子を前に志穂は口を噤み、だけど斎藤はそのまま何も言わずに固まり続ける。


 あー。


 寝室から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。志穂は「起きちゃった」と呟いて寝室を見やり、重たい沈黙の解消を試みる。だけど斎藤は動かない。ドア越しに赤ん坊の泣き声が響く中、じっと押し黙って俯いている。


「尚美さん」


 異様な雰囲気に耐えかねて、志穂は斎藤に声をかけた。反応なし。逆に赤ん坊の泣き声のボルテージはどんどん上がり、焦燥感を煽るものになっていく。


 あー。あー。あー。あー。あー。あー。あー。


「でもさ」あー。「志穂ちゃんが二人分頑張ったら、私はもう要らないよね」


 斎藤が、ゆっくりと顔を上げた。


 感情のない瞳に見つめられ、志穂の背筋に怖気が走る。喜も怒も哀も楽もない、ひたすらに無だけがあるその視線に、志穂は覚えがあった。なんだろうと考えて、すぐに気づく。テレビカメラ。


「私ね、退院してから、ほとんどテレビ見てないんだ」


 斎藤が、リビングに置いてある電源のついていないテレビを見やった。志穂もつられて同じ方向を見やる。そして真っ黒なモニターにぼんやりと映る自分たちを目にして、わけもなく見なければ良かったと思う。


「産休に入ってすぐは見てたんだけど、しばらく経ったらイヤになって、退院したらぜんぜん見なくなった。旦那がつけてる時に一緒に見るぐらい。でもそれも見るの辛くて、部屋に逃げたりする。特にレポートとかドキュメンタリーとか、今まで私が撮って来たようなものがダメ。なんでだと思う?」


 黒いモニターに映る志穂に、斎藤が質問を投げた。志穂は答えない。モニターの斎藤を見つめながら、小学生の頃に怖い本で読んだ、問いかけに答えたらあの世に連れて行く妖怪のことを思い出す。


「置いて行かれてる気がするの」


 あー。あー。あー。赤ん坊の泣き声は、まだ続いている。


「私が赤ちゃんと向き合っている間に、世界が私の居場所を奪っていく気がする。旦那が、両親が、兄弟が、親戚が、友達が、日出社長が、志穂ちゃんが、私に休めって言うたびに、私は狭い箱に押し込められたような気分になる。近い業界にいる旦那は変わらずに仕事を続けているのに、どうして私は休まなくちゃいけないのか分からない。箱にしまわれなきゃいけない理由が、理解できない」


 モニターの斎藤が、現実の志穂から顔を逸らした。志穂も同じように首を動かしてモニターから視線を外す。そして現実の斎藤と向き合い、言葉を聞く。


「ここしばらく、志穂ちゃんのドキュメンタリー撮影のこと、ずっと失敗しろって思ってたの。そう思う自分がイヤで、撮影に参加すれば少しは変わるかもと思って、志穂ちゃんを呼んだ。自分ではそのつもりだった。でも、違った」


 斎藤が、小さく首を横に振った。


「私は志穂ちゃんの泣き言を聞きたかった。上手くいってない、みじめな姿を見て安心したかった。だって私、今、イラついてる。キラキラした目で仕事の話をする志穂ちゃんを見て、頼むから消えてくれって気持ちになってる」


 斎藤の両目から、つうと涙がこぼれ落ちた。


「どうすればいいかな?」


 あー。赤ん坊の泣き声が一際大きくなった。斎藤がゆらりと立ち上がり、「寝かしつけて来る」と言い残して寝室に向かう。志穂はその姿を追わず、斎藤がリビングに戻ってくるまでずっと、太ももに乗せた自分の手を見つめて固まっていた。

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