誰が為
打ち上げが解散になり、パブの外に出る。
夜もだいぶ深まっていたけれど、学生街は少しも眠っていなかった。二次会の話をする若者たちに別れを告げ、佑馬と樹は場を離れる。内臓から湧き上がるアルコールの熱と、皮膚を撫でる初夏の熱気。そして数年前は自分も学生として歩いた街並みのノスタルジーに、佑馬の口は自然と軽くなった。
「あそこ、コンビニになったんだ」
「前は違ったのか?」
「本屋だったんだよ。よく通ってた」
「ふうん」
「海外の本の品揃えが良くてさ。やっぱ今時、ああいうニッチなのはキツいのかな。なんか寂しいな」
ふらふらと歩きながら、佑馬は樹に思い出を語る。樹は話に相槌を打ちながら、ぼやけた目で街並みを見つめる。水族館で名前も知らない魚が泳いでいる水槽を眺めているような、分厚いガラスの向こうから世界を俯瞰する視線。樹はよくそういう目をする。そしてその視線の正体を、佑馬はまだ図りかねている。
駅に着いた。改札を通って階段を上り、ホームのベンチに並んで腰かける。駅傍の雑居ビルが掲げる学生ローンの看板が佑馬の視界に入り、そこに書かれている『ご利用は計画的に』という文言を読んで、昔「計画的に利用できるやつはお前のところから借りねえよ」とツッコミを入れてウケた過去を思い出した。あの時、一緒にいた仲間は誰だっただろうか。空気は鮮明に思い出せるのに、具体的な情景が出て来ない。
「ねー、大丈夫?」
駅の柱に若い男がもたれかかり、若い女がその背中をさすって声をかける。樹が佑馬の方を向き、親指で若い男女を示した。
「お前もああなったことあんの?」
「ない。介抱する側だったから」
「ああ、そうだよな。それっぽいわ」
話が途切れ、樹が斜めを見上げた。その視線の先にある電光掲示板が、次の電車の到来までの猶予時間を告げている。残り三分。ちょうどいい。根拠もなく、なぜかそう思う。
「今日、どうだった?」
雑多な喧噪の中でも届くよう、佑馬は声を鋭く絞った。樹が背中を丸めて肩を落とし、佑馬を下から覗き込む。
「どうって?」
「片桐さんの講演会を聞いて、サークルの若い子たちと話をして、何か思うところはなかったのかって話だよ」
「別に」
樹の瞳から、焦点がぼけはじめた。ガラスの向こうの魚を見る目に変わっていく。待て。これは同じ世界の話だ。そう告げるように、佑馬は吐く息に熱を乗せた。
「前、俺たちのドキュメンタリーは、俺たちだけが良ければいいってものじゃないって言っただろ」
肺から吐き出した熱が、鼻から入って脳に逆巻く。
「その答えの一つが、今日会った子たちだ。撮影に臨む俺たちの肩には、あの子たちの想いも自然と乗っかってきてる。そうしたいとか、したくないとかじゃなくて、そうなってるんだよ。俺はずっとそれを意識しているし、出来るならお前にも意識して欲しいと思う」
ホームのスピーカーから、電車到着のアナウンスが流れ出した。佑馬は腹筋に力を込めて声量を上げる。
「俺はあの子たちを失望させたくないんだ。あの子たちが大学を卒業して、俺たちと同じ年になった時、今よりももっといい世界が広がっていて欲しい。しなくていい苦労をしてもらいたくない。それは、お前だって同じだろ」
電車の駆動音が近づいてくる。高速で移動する鉄の塊の生み出す振動が、徐々に強くなっていく。答えはなくてもいい。言葉が届いているか届いていないか。それを見極めるため、佑馬は樹の些細な表情の変化も見落とすまいと目をこらす。
揺蕩っていた樹の瞳の焦点が、佑馬の上でぴたりと止まった。
「お前さ」電車が停まる。「そうやって、ずっと他人のために生きていくつもりなのか?」
プシュ。
停止した電車のドアが開き、車両の中から降車客が溢れ出す。樹が佑馬から顔を逸らし、のっそりとした動きで立ち上がった。答えはなくてもいい。そして、届いていても届いていなくても構わない。そういう考えを態度で示し、これから乗り込む電車を見つめて言葉を漏らす。
「俺は、嫌だな」
樹が電車に向かって歩き出した。佑馬も立ち上がり、酔いとは違うふらつきを全身に感じながら足を進める。柱の陰で酔いつぶれた男を介抱していた女が、苛立ちに満ちた金切り声で「電車来たってば!」と叫んだ。
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