無色透明

 若かりし日の佑馬にとって、大学のLGBTサークル『無色透明』は、ロールプレイングゲームのセーブポイントのようなものだった。


 現実世界という名のダンジョンの中で見つけた、敵の出現に怯えず息をつける唯一の場所。十四歳の夏、同級生の男子を好きになってから誰にもカミングアウトをしていなかった佑馬は、初めて見つけた自分らしく生きられる場にのめり込んだ。初めての恋人もサークルで作った。勢い任せで始まった付き合いはすぐに失速し、半年も経たずに関係は終わってしまったけれど、自分はこれからもこうやって生きていくのだと背中に芯が通った。


 二十歳の誕生日、佑馬は両親と弟にカミングアウトをした。今まで映画サークルに入ったと言っていたけれど、本当は違うサークルに入っていたことも明かした。「嘘ついて、ごめんなさい」。そう言って頭を下げる佑馬に、母親はこう返した。


「嘘つかせて、ごめんなさい」


 サークルの仲間たちは誕生会を開き、佑馬のカミングアウトとその成功を祝ってくれた。二月生まれの春日は誕生日より先に成人式を終えており、式典は退屈の一言だったが、誕生会に出てそう感じた理由がよく分かった。何も変わっていなかったからだ。変わっていないのに変わったのだと押し付けられたから、実感が湧かず感情もついてこなかった。だけど今は違う。この誕生会こそが春日佑馬の成人式だ。掛け値なしに、そう思えた。


 セーブポイントがあれば冒険が捗る。冒険が捗れば、レベルが上がって強くなる。やがて佑馬はサークルの副幹事長を務め、就職の面接ではその経験を語った。自分が胸を張って生きることが、サークルへの恩返しになると思っている。リクルートスーツを着ながら放った言葉は、大学の就職補佐からの受け売りでは決してない、心からの本音だった。


 そういった日々のことを、講演会の打ち上げで訪れたパブのボックス席で自分より十近く年下の後輩に囲まれながら、佑馬はぼんやりと思い返していた。


「本当に、尊敬してるんですよ」


 二十歳になったばかりだという短髪のゲイの青年が、テーブルの向こうから語りかけてくる。薄暗い店の灯りを若い肌が照り返し、やけに淫靡に見えた。熱を熱で覆い隠そうとするように、自分のシャンディ・ガフのグラスを口元に運ぶ。


「俺、ツイッターやってるんですけど、春日さんたちが出てくる前と出てきた後で雰囲気かなり変わったんですよね。『その辺にいる人たち』だって分かってもらえたというか。ファンアートも結構追ってて……これとか見たことあります?」


 青年がテーブルの上にスマホを差し出した。アニメ調にデフォルメされた自分と樹の絵を見て、その美化っぷりに佑馬は苦笑いを浮かべる。隣の樹がスマホをのぞき込み、佑馬の思ったことをほぼそのまま口にした。


「イケメンに描きすぎだろ」

「そうですか? 俺、バズったインタビューとかこういう絵とかめっちゃ見てましたけど、実際会って本物の方がイケメンだと思いましたよ」

「芸能人じゃねえんだから」

「似たようなもんじゃないですか」


 青年がけらけらと笑った。樹は難しそうな顔をして、手持ちぶさたに顎髭を撫でながら青年のスマホを見つめている。納得いっていないのか、満更でもないのか。初対面の人間には基本的に不愛想だから、感情を読み取るのが難しい。


「佑馬くん」


 背後から名を呼ばれ、佑馬は振り返った。右手に青いカクテルの注がれたグラスを持った片桐が、左手で奥のカウンター席を指さす。


「ちょっと、あっちで話さない?」

「いいですよ」


 グラスを手に、ボックス席から通路に出る。テンション高く樹に話しかけていた短髪の青年が、立ち上がった佑馬の方をちらりと見やった。だけどすぐ樹に視線を戻し、佑馬は話が盛り上がっている隙にそそくさと場を離れる。


 カウンター席に座ると、片桐が自分のカクテルグラスを差し出してきた。佑馬はそのグラスに自分のグラスを合わせ、「乾杯」と小さく囁く。片桐がクイッとグラスを傾けてカクテルを一口飲み、佑馬に話しかけてきた。


「久しぶりのサークルはどう?」

「どうと言われても、僕は浦島太郎状態なので」

「だからこそ分かることもあるでしょ」

「雰囲気はだいぶ変わった気がします。外に出るようになったというか。僕がいた頃はもっと内輪の交流サークルだったというか」

「同感。昔は積極的に社会運動やる私たちの方が浮いてたもんね」

「それは片桐さんが浮いてただけな気がしますけど」

「言えてる」


 片桐の頬にえくぼが浮かんだ。そして椅子を軽く回し、ボックス席の方を向く。


「たぶん、そういう社会になってきたってことなんだろうね。仲間で集まれればそれでいいって時代じゃないみたい」

「いいことじゃないですか。おかげで片桐さんの活動もやりやすいんでしょう?」

「うん。今日もだけど、色々手伝ってくれて助かるよ。ただ……そういう子ばかりじゃないとは思うけど」


 片桐がふうと息を吐いた。再び椅子を回し、片肘をカウンターについて、物憂げな視線を佑馬に寄越す。


「佑馬くん、今日、なんで真希が来てないか分かる?」

「真希さん?」


 片桐が口にした恋人の名前を、特に意味もなく繰り返す。言われて初めて気づいたが、確かにいない。片桐に呼ばれて出向く時はいつも同伴しているのに。


「どうしていないんですか?」

「撮影してたでしょ。映るかもしれないのがイヤなんだって」

「それは茅野さんと、撮っていい人しか撮らないって話をつけたじゃないですか」

「関係ないの。この打ち上げだって、カメラは入らないって言ってるのに来なかったんだから。まあ、来なくて正解だったかもしれないけど」

「どうして」

「講演が終わった後、茅野さんが佑馬くんに変な頼み事してたでしょ」


 頼み事。出産した先輩に会いに来てくれ。茅野自身も戸惑っていたような素振りを思い返しながら、佑馬は「ああ」と頷いた。


「ありましたね」

「あの時、私、ただの性格悪いやつになってたんだよね」

「どういうことですか?」

「佑馬くん、結婚式に呼ばれて結婚する二人をひがむようなやつは、もうマイノリティとかマジョリティとかじゃなくてただの性格悪いやつだって言ってたでしょ。でも茅野さんの話を聞いて、私は『なんでそんな話するの?』って思ってたの。真希が子ども産みたいとか言い出してるから」


 ボックス席の方から、大きな笑い声が上がった。


 音の切れ端だけで酒が入っていると分かる、陽気でバカでかい男の笑い声。その明るいムードが背中に当たり、自分たちを衝立にしてカウンターに影を落とす。明と暗のコントラストの境目に置かれている己を自覚しながら、佑馬は自分のグラスに手を伸ばし、冷たい表面を撫でて酔いを少し覚ました。


「それは片桐さんと別れて、ということですか?」

「違う。精子バンクを使って、自分で産んで、生まれてきた子どもを私と育てたいんだって。でも私は要らないの。本当に要らない。おばあちゃんになるまで、真希とずっと二人でいい」


 要らない。片桐が力を込めてその言葉を繰り返した。そうすればそれが言霊となり、世界に影響を与えてくれるかのように。


「そう言ったら喧嘩になって、そんな中で茅野さんのアレがあったから、理不尽にムカついてさ。なんかさあ、情けないんだよねえ。自分が手本みたいな顔して、裏ではドロドロってのが。それでもやらなきゃいけないとは思うし、講演で嘘を言ってるつもりもないんだけど、なんかイヤなの」


 ――僕もですよ。


 実は僕は、樹と上手く行ってないんです。それを嘘ついて、誤魔化して、ドキュメンタリーに臨んでいるんです。だから片桐さんの気持ちは分かります。虚像と実態の乖離から来る葛藤も。それでもやらなくちゃならないという、決意と意思も。


「佑馬くん」気の抜けた声。「ひな祭りの話、覚えてる?」


 ひな祭りの話。聞いたことはある気もするけれど、キーワードが断片的で脳内検索に引っかからない。


「何でしたっけ、それ」

「私が子どもの頃、ひな祭りが嫌いだったって話」

「ああ。三人官女を一番上に持ってきて親に怒られたってやつですよね」

「そう。あの話は鉄板だから、今日、茅野さんにもしたんだよね。そうしたら茅野さんもひな祭り嫌いだって教えてくれて、この人ならドキュメンタリー任せても大丈夫だなって思った」


 片桐の表情が、笑顔の形になった。笑っているとはなぜか思えなかった。そしてその感覚の正しさを証明するかのように、すぐに笑みは消え失せ、片桐が佑馬から顔を逸らしてカウンターの正面を向いた。


「真希はさ」


 フープピアスが、ゆらりと揺れる。


「ひな祭り、好きなんだって」


 ほとんど残っていないカクテルを、片桐が一気に飲み干した。佑馬も合わせて自分のシャンディ・ガフを口に運ぶ。やがてボックス席から「片桐さーん」と女の子の声が届き、「なーにー?」と答えて振り返る片桐の表情は、辛いことなんて何もなさそうな満面の笑顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る