不穏

 片桐の講演会は、大学内にあるキャパシティ三百人程度の講堂で行われた。


 カリキュラムとして取り入れている講義もあるらしく、扇状に配置された机は目算でおよそ八割が埋まっていた。講堂前方の壇上に立ち、スクリーンに映された資料を用いて講演を行う片桐の姿は凛々しかった。志穂はまたしても自分と片桐の間に大きな格差を感じつつ、時おり隣でカメラを回している山田を見やり、自分も自分のやり方で世界を変えようとしているのだと現状の肯定に努めた。


 やがて、講演が終わる。しばらくの間、聴講者たちが講堂から出払うのを待ってから、志穂は山田と共に壇上の片桐の元へ向かった。そして講演会を手伝った『無色透明』のメンバーに囲まれている片桐に、横から声をかける。


「片桐さん、お疲れ様でした」


 片桐が振り向いた。満足げな表情が眩しく、つい視線を下げそうになる。


「とても興味深い講演でした。仕事抜きで、聞けて良かったです」

「ありがとうございます。特にどの辺りが良かったとかありますか?」

「そうですね。私としては――」


 ブー。


 デニムのポケットで、スマートフォンが震えた。言葉を切って無視するのも不自然なので、片桐に「すいません」と断ってスマートフォンを取り出す。届いているものは通話。発信者は――


 斎藤尚美。


「あの」


 固まる志穂に、片桐が声をかけた。


「話は後で構わないので、先に用件を済ませて下さい」

「すいません……では」


 ディスプレイに指を走らせて電話を取りつつ、歩いて片桐から離れる。電波の向こうから「志穂ちゃん?」と呼びかけて来た声は、間違いなく産休に入っている斎藤だった。電話をかけてくる用件がまるで思いつかないが、とりあえず「はい」と答えて話を進める。


「今、どこ? 話せる?」

「ロケ先ですが、ロケは終わったので大丈夫です」

「それ、例のゲイカップルの密着取材?」

「はい」

「カップルの人たちはまだ近くにいる?」

「いますよ」

「そう。ちょうど良かった。あのね、まず報告があるんだけど、生まれたの」

「え!?」


 驚きのあまり、短い叫び声が飛び出した。片桐たちが志穂の方を向き、志穂は背中を丸めて小さくなる。


「それは、おめでとうございます」

「ありがとう。それで提案があるんだけど、私が退院したら、志穂ちゃんとゲイカップルの人たちで赤ちゃんを見に来てくれないかな」

「……どういうことですか?」

「取材して欲しいの」


 抑揚のない声が、志穂の耳に硬く響いた。


「ゲイカップルの人たちに特別なイベントがある時、出向いて撮影するって話だったじゃない。そのイベントの中に、私の家への訪問を組み込めない?」

「……当人たちの知り合いが子どもを産んだならともかく、撮影スタッフの先輩に会いに行くのは不自然じゃないですか?」

「分かってる。撮った映像が使えないと思ったら使わなくていい。本音を言うと、ただ会ってみたいだけなの。元は私の仕事だったんだから。でも私から出向くのはしばらく難しいでしょ。だから――お願い」


 突飛な話に似つかわしくない、やけに切実な口調。どうしたのだろう。産後の女性は情緒不安定になると聞いたことがあるが、そういうことなのだろうか。


「分かりました。話してみます」

「ありがとう。無理言ってごめんね」

「いえ。後でまた連絡しますので、今はゆっくり休んでください。お産が終わった後だって大事な時期なんですから」

「――うん。分かった。それじゃ、また」


 電話が切れた。志穂はスマートフォンをポケットにしまい、片桐たちのところに戻る。さて、どう切り出すか。片桐の傍に立つ春日と長谷川を横目で見やりながら考えているうちに、片桐が会話の口火を切ってきた。


「ずいぶん驚いていたみたいですけど、大丈夫ですか?」

「悪い驚きではないので大丈夫です。産休に入っていた先輩の子どもが生まれて、その報告だったんですよ。それで――」


 春日と長谷川の方に向き直る。もう、いい。出たとこ勝負だ。


「春日さんと長谷川さんにお願いがあるんですけど、近いうち、私と一緒にその先輩の家に行ってくれませんか?」

「僕らが?」


 春日がきょとんと目を丸くした。志穂はその心情を理解しつつ、勢いで押し切ろうとまくしたてる。


「元々このドキュメンタリーは、その先輩が担当する予定の仕事だったんです。それが産休でダメになってしまい、心残りがあるみたいで……取材の一環としてお付き合い頂けないかと」

「それは僕らが新生児を前にして、何を感じるか撮影したいということですか?」


 口を閉じる。


 そして、周囲を見渡す。長谷川と片桐と『無色透明』に所属する大学生たち。彼ら彼女らは全員がセクシャル・マイノリティだ。伴侶と子どもを得る、「普通」と呼ばれている幸せを手にするのが難しい人々。そんな人たちの前で、そんな人たちの仲間に、「普通」を手にした人間を見に来てくれと頼んでしまった。


 失敗した。せめて、春日と長谷川だけに伝えるべきだった。どういう反応が返ってくるのか戦々恐々としながら、目の前の春日を見つめる。


「――分かりました」


 あっさりとした返事。春日が横を向き、隣の長谷川に話を振った。


「樹もいいか?」

「いいよ。いつにすんの?」

「相手次第かな。茅野さん、その先輩はいつごろ退院するんですか?」

「それはまだ分かりませんが……いいんですか?」

「何が?」

「その、今の日本で春日さんたちが家庭を築くのは難しいわけで、そういうお二人に新生児を見せてどうこうというのは、正直グロテスクかなと……」

「ああ。そういうことですか」


 春日が苦笑いを浮かべた。どこか余裕を感じる態度を前に、志穂は少し落ち着きを取り戻す。


「そういうの、僕らは気にしないので、茅野さんも気にしないでください。例えば結婚できない僕らが結婚式に呼ばれたとして、『マジョリティは結婚できていいご身分だな』とか思いませんよ。それはもう単に性格の悪いやつじゃないですか」


 春日の笑みが深くなった。それから急に真面目な顔つきになり、正面から志穂を見据える。


「僕たちは、ただ同性であるということ以外は普通のカップルです。だからそういう風に扱って、そういう風に撮ってください。よろしくお願いします」


 ――たぶん、そういうところだと思いますよ。


 講演前、山田に言われた言葉を思い返す。あの時はムッと来たが、確かに考えすぎていたかもしれない。あれやこれやと気を使い、それがかえって癇に障る。そういうことはあるだろう。


「ありがとうございます」


 軽く頭を下げ、志穂は片桐に話を戻そうと首をひねった。「片桐さん」と呼びかける声を肺にしたため、呼吸と共に気道に運ぶ。


 一瞬。


 文字通り、瞬きをするような時間だけ、片桐の顔に深い陰りが見えた。舌の根本までせりあがっていた声が肺に引っ込む。その声が再浮上するより先に、片桐が人当たりの良い笑顔を浮かべて口を開いた。


「今日の撮影は終了ですか?」

「……そうですね。とりあえずは」

「この後の打ち上げには、参加されないんですよね?」

「はい。仕事が詰まっていて、余裕がなさそうなので」

「分かりました。今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします」


 片桐が右手を差し出した。講堂の照明を反射して、指先のニュアンスネイルが煌びやかに輝く。志穂は差し出された右手に自分の右手を重ね、その皮膚の滑らかさと冷たさに思わず手を引きそうになりながら、細く吐いた息に声を乗せた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」

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