許せるなら
仕事を終えて、帰路に着く。
オフィスを出て、ビルの一階に向かうエレベーターに乗りながら、樹に『今から帰る』とLINEでメッセージを送る。いつも通り、すぐに既読はつくが返事は来ない。ひたすらに自分が帰宅報告をしているだけの異様なトーク画面を眺め、それにもう異様さを感じていない異様な自分に気づき、やたら重く感じるスマホをスーツのポケットにしまう。
およそ一時間かけて、自宅マンションの最寄り駅に着いた。そしてそこからさらに五分ほど歩いてマンションに着く。今日は撮影開始から初の平日だ。始まる前から予想していた通り樹は撮影に乗り気ではないし、「やっぱりバカバカしい」と夕食を先に済ませていてもおかしくはない。仮にそうなっていても怒らないようにしようと、覚悟を決めてから「ただいま」と玄関の扉を開けてリビングに向かう。
食事用のテーブルの上に、ラップのかかった皿の並んでいる光景が、佑馬の視界に飛び込んできた。
チキンソテーとサラダの皿が二人分。ソファに寝そべる樹から「おかえり」の一言もないのは残念だが、まずは夕食を待っていてくれたことに佑馬は安堵した。残り九十七日。今の時点で後退を見せていたら、間違いなくどこかで崖から落ちる。
寝室で部屋着に着替えてリビングに戻り、樹に「食事にしよう」と声をかける。佑馬がライスを皿に乗せ、麦茶をコップに汲んでいると、樹がのっそりと起き上がって同じように夕食の準備を始めた。やがて食卓の椅子に向かいあって座り、皿にかかっているラップを全て外してから両手を合わせる。
「いただきます」
フォークとナイフを使い、チキンソテーを切って口に運ぶ。柔らかい肉とパリッとした皮の間から、熱を持った旨味が油に乗って舌にゆっくりと広がった。続けてサラダにフォークを伸ばし、何気なく会話を始める。
「今日、会社に茅野さんたちが来たんだけど」
「知ってる」
知らないと思って話してねえよ。――ダメだ。我慢しろ。
「うちの会社のこと、すごい褒めててさ。なんか茅野さんの会社は社長がセクハラ親父なんだって。うちはそういうの許さないから、羨ましがってた」
「お前んとこだって、全くないわけじゃないだろ」
「そういうことがあるかないかより、そういうやつを許すか許さないかの方が大事なんじゃないかな。茅野さんはつい許しちゃうらしいんだけど、それってたぶん周りが許すからなんだよ。だから俺の上司に、許せないなら許さなくていいって言われて嬉しそうだった」
「ああ。あいつ、そういうこと言いそうだわ」
あいつ。距離の近い表現に違和感を覚え、反射的に問いを投げる。
「誰のことか分かってんの?」
「久保田ってやつだろ。お前が俺の働いてたバーをあいつに紹介したんじゃん。覚えてねえの?」
久保田の名が出て、佑馬は驚きに目を見開いた。紹介したことを忘れていたわけではない。紹介したけれど、どうせ忘れているだろうと思っていただけだ。何せ、わざわざ会食の場を設けて対面した片桐の名前すら、会食後には綺麗さっぱり忘れていたのだから。
「一回会っただけなのに、よく覚えてるな」
「一回会えば、覚えるだろ」
お前は覚えない方が圧倒的に多いだろうが。――だから、ダメだって。抑えろ。
「でもさ、許せないなら許さなくていいって、いい言葉だよな」
話題を戻す。反応せず食事を続ける樹に声をかけ、会話に引きずり込む。
「樹。マイクロアグレッションって知ってるか?」
「知らねえ」
「日常で悪意無く放たれがちな、小さな偏見のことだよ。『ゲイなら女性の気持ちも分かるでしょ』とか、分かりやすい差別じゃないからこそチクチクくるやつ。お前もそういうの喰らった経験ぐらいあるだろ」
「なくはない」
曖昧な答えだ。ここは乗ってきて欲しかったのに。
「それで俺は、そういうことがあっても我慢してたんだ。悪意があるわけじゃないから流そうって。でも今日、許せないなら許さなくていいって言葉を聞いて、なんかホッとしたんだよ。そういう生き方をしたいなと思った。だから――」
「許せるなら、許してもいいだろ」
カツン。
樹がフォークとナイフをチキンソテーの皿に置き、硬い音が部屋に響いた。そして空いた右手で麦茶のコップを持ち上げ、一口だけ飲んでテーブルに戻す。薄茶色の液体がゆらゆらと揺れる中、樹はどこか眠たそうな目で佑馬を見つめながら、淡々と語り出した。
「わざと足踏んできたやつとうっかり踏んだやつで対応違うのは当たり前だし、思いっきり足踏まれた時と軽く肩ぶつかった時で違うのも当然だ。そんで大したことねえなと思ったら、許すことだってある。それってそんな変か?」
刺々しい語尾上げ。空気の塊を押し付けられているような感覚に、佑馬は思わず背中を引いた。樹がフォークとナイフを持ち直し、チキンソテーを切り分けながら呟く。
「俺は人を許さないより、許す方が難しいと思うけどな」
切り分けたチキンソテーを、樹が口に運んだ。佑馬は自分の手元に視線を落とし、食事は進めず、樹から放たれた言葉を脳内で消化することに努める。許せるなら許してもいい。許さないより許す方が難しい。でも――
「でもお前は、許しすぎなんじゃないか」
佑馬は顔を上げた。食事の手を止めた樹と、視線がテーブルの上でぶつかる。
「一昨日の夜、ゲイだって理由で仕事を辞めさせられても抵抗しないの、めんどくさいからって言ってたよな。でも本当は我慢してるんじゃないのか。さっきのお前の話で言うなら、そういうのはわざと全力で足を踏みに来ているし、ちゃんと怒って発散した方がいい。お前ばっかり我慢するのは――やっぱ、おかしいよ」
最後は、勢いが尻すぼみになった。沈黙をチキンソテーの匂いが埋める。人間の食欲を誘う、精力的でどこか場違いな香りの粒子が、鼻から体内に取り込まれて喉に詰まって声をふさぐ。
「あのさ」樹が、左手のフォークに刺さっているチキンソテーの切れ端を、佑馬に見せつけるように掲げた。「俺がこれ作る時に失敗して、不味くなったとするじゃん」
話が不可思議な飛び方を見せ、佑馬は眉をひそめた。意味がわからないが、まずは続きを聞こうと相槌を打つ。
「うん」
「そんで失敗して落ち込んでる俺を、お前が『誰にだって失敗はある』とか言って慰めるわけ。それは優しいよな?」
「まあ、そうだな」
「じゃあさ、俺は美味い料理が出来たと思って満足してるのに、お前が自分の舌に合わないから失敗したって決めつけて、『失敗したな。でも気にするなよ。誰にだって失敗はある』とか言ってくるのは、優しいと思うか?」
佑馬の相槌が止まった。樹が掲げていたフォークを下ろす。
「お前、そういうとこあるよ」
フォークに刺さっている鶏肉を、樹が口に運んだ。佑馬もそれ以上の対話を諦め、自分の食事を進めることにする。樹の作った料理はやはり文句のつけようがなく美味くて、例え話にしてももう少しいい例えがあっただろうと、どうでもいいところがやけに腹立たしく思えた。
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