許せないなら

 春日の職場の撮影は、滞りなく進んだ。


 職場の人間は気さくで、頭の回転が良く、とても与しやすかった。春日や久保田同様、やはり仕事によって対人能力が鍛えられているのだろう。だがそれも良い仕事が出来る環境があってこそだ。撮影の打診に会社が二つ返事でOKを出した理由がよく分かる。


 やがて、昼休みの時間が近づいてきた。素材は十分に撮れた。最後に礼を言って立ち去ろうと、志穂はデスクでパソコンと向き合う久保田に声をかける。


「久保田さん」


 久保田が志穂の方を向いた。そして「どうしました?」と続きを促す。


「そろそろお暇させて頂きたいと思います。本日はご協力頂き、ありがとうございました」

「どういたしまして。ところで茅野さんたちは、昼食はどうする予定ですか?」

「昼食ですか?」

「はい。差し支えなければ春日も含めて、ご一緒できないかと」


 昼食の同伴。親睦を深めるためにこちらから申し出ることはよくあるが、取材対象から持ちかけられるのは珍しい。とはいえ、相手の方から歩み寄ろうとしてくれているのを断る手はない。


「構いませんよ。元から近くで食べて、次に移動する予定でしたから」

「ありがとうございます。春日、聞いてたな。行くぞ」


 久保田が立ち上がり、春日に声をかけた。春日は座ったまま顔を上げる。


「昼休みまでまだ少しありますよ」

「固いやつだな。上司がいいって言ってるんだからいいんだよ」

「久保田さんが適当すぎるんですよ」


 軽口を叩き、春日も立ち上がった。そして四人でビルを出て、近くのイタリアンレストランに入る。ランチを取りながらの談笑は、志穂と久保田の会話に時おり春日が混ざるといった風に進んでいき、山田だけが全く参加できずに志穂の隣で小さくなっていた。


「では、その化粧品のキャンペーン広告が、春日さんが今抱えている最も大きな案件なんですね」

「そうですね。コンペ相手は強豪ですが、私は勝てると思っています。ドキュメンタリーの撮影期間中に祝勝会を開くと思うので、ぜひ撮影に来て下さい」

「久保田さん、変なプレッシャーかけないで下さいよ」

「負ける気なのか?」

「そうは言ってません」

「その意気だ」

 久保田が春日の肩をこつんと叩き、春日は照れくさそうにはにかむ。距離感の近さが印象に残るのは、春日のセクシャリティが生む先入観だろうか。ただ『ライジング・サン』の男たちは、誰にでも距離感ゼロな日出社長を除き、もっとパーソナルスペースを広く取っている気がする。


「茅野さん」久保田が志穂に向き直った。「今日の撮影で弊社にどういう印象を抱いたか、参考までに教えて頂けませんか?」


 ――本当に、どちらが取材に来たのか分からなくなりそうだ。言葉を選びながら、志穂は慎重に答える。


「先進的で、素晴らしい会社だと思いました。皆さん生き生きしていて、LGBTへの理解も高く、春日さんが入社するだけのことはあるなと」

「ありがとうございます」

「女性にとっても働きやすそうでしたね。女性社員の方も多かったですし」

「ジェンダー平等も弊社の大事なミッションの一つですから。ただ茅野さんのような方の実力をきちんと評価し、ディレクターを任せているそちらの会社も、なかなかのものだと思いますよ」

「ですからそれは、人が少ないだけですって」


 志穂は笑いながら手を振った。半分話術、半分本気で不満をこぼす。


「私の会社、女性は私ともう一人だけなんですよ。そのもう一人も今は産休で……社長が昭和世代の男性でセクハラじみた言動も多いので、逆に入ってこなくて良いのかもしれませんが」

「セクハラですか」

「はい。まあ、男女関係なくいきなり肩揉んだりする人ですし、下心があるわけではないと思うんですけどね。だからこちらもそういうところを汲んで、ある程度許してはいますが……」

「許さなくていいですよ」


 久保田のはっきりした声が、志穂の言葉を奪った。


「私は茅野さんの会社の社長も、茅野さんがその社長からどのような言動を受けているかも知りません。ですが茅野さんが許せないなら、許さなくていい。それだけは間違いないと思います」


 許せないなら許さなくていい。エネルギーのある男から放たれたエネルギーのあるフレーズが、耳から全身に行き渡る。志穂は「そうですね」と小さく呟き、目線を下げた。胸の膨らんだシャツが視界に入り、そういえば久保田はここに目を合わせないなと、そんなことに今さら気づく。


 やがて、食事が終わった。レストランの前で久保田たちと別れ、志穂と山田は車を停めた商業施設の駐車場に向かう。オフィス街を闊歩する昼休み中のビシネスマンたちを眺めながら、山田が独り言のように呟いた。


「なんか、こういうところで働くの、落ち着かなそうっすね」

「そう? 私はこっちの方がいいけど」

「ふーん」


 山田がつまらなそうに鼻を鳴らした。そして高層ビルを見上げながら、空に向かって声を放つ。


「志穂さん、あの久保田って男、タイプだったりします?」


 想定外のところに話が飛び、言葉を返すまで、少し時間がかかった。


「……どうして?」

「なんか機嫌良さそうだったんで」

「私の機嫌が良さそうだと、どうして久保田さんが私のタイプになるの?」

「それは……」


 山田がもごもごと口ごもった。志穂は憮然と尋ねる。


「女が男の前で機嫌が良い時は恋愛感情。そういうこと?」

「いや、それは……」

「あれだけ気持ちよく応対してくれれば、こっちだって気分良くなるでしょ」


 志穂はこれみよがしに溜息をついた。還暦過ぎの日出社長ならまだしも、二十歳そこそこの山田がこの有り様は泣けてくる。


「人間を撮る仕事を続けたいなら、人間に偏見を持つのは止めなさい。そういうの、春日さんたちの取材でも絶対に出るからね。分かった?」


 山田が「はい」と小声で呟いた。意気消沈した様子に罪悪感を覚え、志穂は歩調を速める。許せないなら許さなくていい。ついさっき久保田に言われた言葉を脳内で繰り返している自分が、無理してその考え方に馴染もうとしているようで、何だか情けなかった。

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