初日終了
午後十一時半。
ソファでテレビを眺めながら、佑馬はふわあと大きなあくびをした。色々あって疲れが溜まっているのか、土曜のこの時間にしてはかなり眠い。もう寝てしまおうと、起き上がって洗面所に向かう。
洗面所の歯ブラシ立てから、青い歯ブラシを取って歯を磨く。磨いているうちにふと、洗面ボウルの内側が濡れていることに気づいた。樹が同じように寝る準備を整えたのだろう。だけど、直近に樹が寝室を出入りしたのはおよそ五分前。まだ眠ってはいないはずだ。
反省会の話で揉めてから、樹は佑馬を露骨に避けている。何度か風呂やトイレのために寝室から出て来たが、佑馬を一瞥もせずにリビングを素通りしていった。逆に佑馬が寝間着に着替えるために寝室に入ったら、わざとらしく部屋から出ていかれた。この有り様でこの先の撮影を乗り切れるわけがない。そして時間に任せてどうにかなる自然治癒力は、もうとっくに失われている。
――どうするかな。
使い終わった歯ブラシを歯ブラシ立てに戻す。樹の黄色い歯ブラシがかたんと揺れて傾き、二つの歯ブラシが寄り添う構図が生まれた。仲いいな、お前ら。青と黄の歯ブラシを心の中でからかい、洗面所を出てリビングに戻る。
まずはテレビを消す。次にアクアリウムをチェックし、何の問題も起きていないことを確かめる。「おやすみ」。小さな声で魚たちにそう告げて、リビングの電気を消して寝室に入る。
寝室の電気は消えていた。シングルベッドを二つ繋げて一つにした寝床の奥で、樹が布団をかぶって横になっている。背を向けているから顔は見えない。寝息からは眠っているのか起きているのかも分からない。
ベッドにもぐり込み、仰向けになって天井を見やる。すう、すう、すう。隣から聞こえる呼吸音に負けないよう、芯の通った固い声を出す。
「さっきは、悪かった」
寝息が止まった。だけど、返事はない。
「謝るよ。確かに、嘘つくなはおかしい。俺はお前に嘘を要求してるもんな。だからそれを認めた上で、改めて頼みたい」
焦らず、慌てず、丁寧に。
「人の心を揺さぶる、いいドキュメンタリーを撮るために、上手に嘘をついてくれないか。お前がそういうの苦手なのは分かってる。そうじゃなきゃオープンゲイなんてやってないよな。でも、頼むよ。この撮影は俺たちだけが良ければいいってものじゃないんだ。俺たちと同じような人間のために――」
「だからだろ」
言葉が遮られた。佑馬は樹の方を向く。樹は佑馬に背を向けたまま動かない。
「俺らと同じようなやつらのために、出来ることは教えた方がいいんだろ。ゲイってだけでクビにしたら違法なの知らなかったり、クビにしても誰も抵抗しなかったりするから、悪いやつがそういうのを止めない。違うか?」
「……でもお前はそういうことがあっても、抵抗しないんだろ」
「違法だってのは言ってる。それ以上はめんどくせえ。どうせバイトだしな」
樹が右手でボリボリと後頭部を掻いた。暗闇に浮かぶ無骨な指が、やけにはっきりと網膜に残る。このベッドの上で、あの指と自分の指を絡ませた。そんな記憶を身体が思い出して、首の後ろが静かに熱くなる。
いくら片桐や佑馬が望んでいても、樹が頷かなければドキュメンタリーの撮影は始まらなかった。なぜ頷いたのだろう。単に追い出されたら行く場所がなかったからだろうか。
あるいは――
わざとらしい寝息が聞こえて来た。もう話しかけるな。そういう態度を前に、佑馬はこれ以上の対話を諦める。仰向けになって布団をかぶり直し、ついさっき魚たちにかけた言葉をもう一度呟く。
「おやすみ」
目をつむる。眠りに落ちながら、今日一日を思い返す。残り九十九日。長い戦いになりそうだった。
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