ライジング・サン

 夕食と、食後を少し撮り、志穂は初日の撮影を切り上げることにした。


 春日たちに礼を言い、山田と共にマンションを出る。コインパーキングに停めたワゴンの助手席に乗り込み、山田の雑な運転が生む振動に揺られていると、そのまま眠ってしまいそうになった。まだ仕事は終わっていない。集中を切らすわけにはいかないと、脳内に今日撮った映像の編集イメージを展開する。


「志穂さん、BL読むんすね」


 山田が、人をおちょくるような口ぶりで話しかけてきた。少しムッと来たが、眠気覚ましにはちょうどいい。


「悪い?」

「いや、志穂さん恋愛モノ興味なさそうなんで、意外だなと思って」

「男女の恋愛モノは興味ないけど」

「そうなんすか? それ、なんか違うんすか?」

「異性愛と同性愛なんだから、全然違うでしょ」

「恋愛は恋愛じゃないっすか。よくわかんないっす」


 あんたは恋愛でめんどくさい目にあったことなさそうだから、そりゃ分からないでしょうね。そんな喧嘩腰の言葉が思い浮かんだ。だけどすぐに山田が話題を変え、言葉は声にならないまま、頭の奥深くに沈む。


 やがて、会社が借りている月極駐車場に着いた。三台ある社有車は志穂たちが乗って来たワゴンも含めて二台しかない。つまり、土曜の夜に機材の運搬が必要な撮影に出かけている人間が他にもいるということだ。よくある話なので驚きはないが、自分だけではないことに些細な安心感を覚える。


 駐車場から少し歩くと、平たい屋根の二階建て家屋が現れた。壁に貼ってある『映像制作スタジオ ライジング・サン』と書かれた看板を見るたびに、スタジオなんて立派なものではないだろうと思う。もっとも、漫画家がアシスタントと漫画を描く作業場をスタジオと呼ぶようなものだと考えれば、この上なく的確な表現かもしれない。『ライジング・サン』の社員は、まさにそういう働き方をしている。


 玄関のドアノブに手をかけて回す。物理的な抵抗なくノブが回ったことに、心理的な抵抗を覚える。鍵がかかっていないということは、誰かが中にいるということ。そしてスタジオ在住時に鍵をかけない人物は、会社に一人しかいない。


 玄関で靴を脱ぐ。面倒なことになる前に二階のオフィスルームに行ってしまおうと、廊下を早足で進み奥の階段に向かう。


 階段の傍にあるドアが、勢いよく開いた。


「お! 志穂ちゃん!」


 大柄な白髪の男――『ライジング・サン』の社長、日出ひのでいさおが、へらへらと笑いながら志穂に歩み寄って来た。頬は真っ赤に染まっており、どうやらかなり酔っているようだ。この時間にスタジオにいる社長が素面なわけがないと予想はしていたが、出来ればその予想は外れて欲しかった。


「えっーと、今日はあれだっけ、ゲイカップルの撮影ロケ

「はい」

「どうだった? 飲みながら話聞かせてよ」

「すいませんが、映像ブイのチェックがあるので……」

「そんなの後でいいじゃない」

「明日も昼から撮影ロケなんです」

「それならどうせ泊まるんでしょ? ピリピリしてたら、かわいい顔と大きい胸が台無しよ。リラックス、リラックス」


 社長が両手を志穂の両肩に乗せ、そのまま揉みしだいてきた。酒臭い吐息が鼻にかかり、目の前の最高権力者を突き飛ばしたくなる衝動に駆られる。顔も胸も台無しで構わない。そこに価値を見出して欲しいなんて、微塵も思ってない。


「山田くんも飲もうよ。いいワインあるから」

「はあ……」


 社長に絡まれた山田が、ちらりと志穂に視線を送ってきた。救いを求めているようだ。だけど残念ながら、その期待に応えることは出来ない。


「山田くん、カメラのSDカードちょうだい」

「え?」

「私は上で映像ブイのチェックするから、山田くんは社長に今日の報告して。区切りがついたら私もそっち行くから」


 山田が顔をしかめた。だけどすぐにその表情を引っ込め、担いでいたカバンからカメラを取り出し、SDカードを外して志穂に渡す。志穂はさっさとSDカードを受け取って階段を上り、二階のオフィスルームに入った。自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れ、肩の力を抜いて椅子の背もたれに身を預ける。


 隣のデスクに置いてある、小さな熊のぬいぐるみが視界に入った。


 今は産休に入っている、志穂の六つ上の女性先輩社員、斎藤さいとう尚美なおみの私物。デリカシーを天竺に置いてきた社長からセクハラめいた言動を受けた時、志穂は斎藤に愚痴をこぼし、そして斎藤はその愚痴に付き合ってくれた。社長のことだけではない。女は鑑賞物になる生き物であって、鑑賞物を創る生き物ではない。そういう風潮が色濃く残る業界で、若い女がサバイブしていく苦労を理解してくれるのは、少なくとも『ライジング・サン』では斎藤だけだった。


 志穂が企業のPR動画やローカルテレビ番組の一コーナーに使われるような映像を撮る傍ら、産休前の斎藤は撮った映像がそのまま番組になるような仕事をバンバンとこなしていた。そんな斎藤は志穂の頼もしい先輩で、目指すべき姿でもあった。春日と長谷川のドキュメンタリーも元は斎藤が担当する予定だったのだ。だけど斎藤の妊娠が分かり、志穂に案件が下りて来た。


 つまりこの仕事は、茅野志穂が斎藤尚美になれるかどうかの試金石だ。完成品の出来栄えはキャリアを左右する。社長になんと言われようと、リラックスしている場合ではない。


「よし」


 自分の両頬をぴしゃりと叩く。SDカードから動画ファイルをパソコンに移し、編集ソフトに読み込ませる。映像は思っていたよりも上手く撮れていて、山田に社長の相手を押し付けて逃げてきたことに、些細な後ろめたさを覚えた。

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