誤算

「いいとこ住んでますねー」


 撮影機材の入ったバッグを左肩に、電源の入っていないカメラを右肩に提げた山田が、春日たちの住むマンションを見上げて感嘆の声を漏らした。なんてことのない郊外のマンションだが、山田からすれば一目見てボロいと思わないだけ上等なのだろう。気持ちは分かる。『ライジング・サン』の給料は安い。志穂も女の一人暮らしに必要な治安と人間らしい生活を両立できるようになるまで、かなりの期間と苦労を要した。


「働いてんの春日さんだけなんすよね。デザイナーって儲かんのかな」

「私たちの業界と一緒で、ピンキリでしょ」

「春日さんはピンの方?」

「さあ。失礼だから、絶対本人には聞かないように」

「分かってますって」


 マンションに足を踏み入れる。共用玄関では宅配サービスの男が、インターホンを使ってどこかの部屋と話をしていた。ロックを解除して貰った男がエントランスホールに入るのを見届け、今度は志穂がインターホンで「503」とボタンを押して春日を呼び出す。


「はい」

「茅野です」

「分かりました。どうぞ」


 エントランスホールに続くドアが開いた。エレベーターで五階に上がり、山田に「撮影始めて」と指示を出して503号室に向かう。部屋に入るところから撮影するからそのつもりでいて欲しいとは言っておいたが、上手く対応してくれるだろうか。一抹の不安に襲われながら、インターホンを押す。


 玄関のドアが開いた。現れた春日が、爽やかな笑みを浮かべる。


「こんにちは」


 整えられた頭髪に、アイロンのかかったカッターシャツとボトムス。待ち構えてくれていたようだ。少しやりすぎなぐらいで、こちらが二人ともデニムにTシャツという、動きやすさ重視の撮影スタイルでいることに引け目を感じる。


「では、中へどうぞ」


 春日と共に室内に上がる。廊下を抜け、すりガラスのはまったドアを開けてリビングキッチンへ。リビングのソファに座っていた長谷川が立ち上がり、近づいてくる志穂たちに向かって軽く頭を下げた。


「どうも」


 素っ気ない態度。服装もTシャツに短パンとラフ。カメラを向けられないわけではないが、春日と並ぶとアンバランスになる。どうやって誤魔化そう。いや、このちぐはぐさはむしろ、キャラクターとして押し出した方がいいかもしれない。


「これ、もう撮ってるんですか?」


 長谷川がカメラに顔を近づけた。後ずさる山田に代わって、春日が答える。


「入るところから撮るって、言っといただろ」

「入るところだけ撮るのかなと思って」

「それで、お前はどうやって登場するんだよ」


 春日がため息を吐いた。そして志穂に向かって軽く頭を下げる。


「すいません。撮り直しますか?」

「いえ。編集でどうにかしますので、自由にして頂いて結構です。今までの部分だって使うイメージはありますが、実際に使うかどうかは分かりませんので」

「素の俺らを撮りたいんだから、あんま構えない方がいいですよね」


 お前は構えすぎなんだよ。そう言いたげな長谷川の言葉を受け、春日がむっと顔をしかめた。志穂としては構えられすぎても自然体すぎても困るが、何より空気が悪いのが一番困る。


「あの部屋は寝室ですか?」


 リビング隅のドアを指さし、話を逸らす。春日が質問に答えた。


「はい」

「中を撮らせて頂いてもいいですか?」

「いいですよ。どうぞ」


 春日を先頭に、ぞろぞろと寝室に向かう。寝室は二つ並んだベッドが大部分を占めていて、やけに狭苦しい印象を受けた。志穂は何か撮り甲斐のあるものはないだろうかと部屋を見渡し、本棚に並ぶ漫画本に目をつける。この背表紙は――


「この辺の本は、ボーイズラブですか?」


 傍にいた春日に尋ねる。春日は首を縦に振った。


「そうです」

「ゲイの方も読まれるんですね」

「今の世の中、避けて通る方が難しいですよ。普通に生きていれば最初に触れる同性愛ものはボーイズラブになりますから。これで目覚めたというゲイだって珍しくありません」

「春日さんも?」

「僕は違います。ただこういう物語があることで、思春期の頃は救われました」

 

 漫画本を一冊手に取り、春日がしみじみと呟いた。そしてふと何かに気づいたようにまぶたを上げ、志穂に尋ねる。


「どうして背表紙だけでボーイズラブだって分かったんですか?」

「それは……私もここにある本、いくつか持っているので」

「へえ。そのうち一緒に語りたいですね」


 春日が声を弾ませた。志穂は共通の趣味を見つけたことに手応えを覚える。これから長い付き合いになる。仲良くするに越したことはない。


「長谷川さんも、ボーイズラブは読まれるんですか?」


 この勢いでもう一人、と長谷川に話を振る。しかし長谷川は乗ってこなかった。


「俺は読まないです」

「そうなんですか。どんな本を読まれるんですか?」

「特に何も。この本棚に俺の本はないです」

「ドラマや映画は観られますか?」

「観たり観なかったりですね」

「どんな作品を観られるんですか?」

「サブスクで適当に、って感じです」


 踏み込むな。


 のらりくらりとした答えからそのメッセージを読み取れないほど、志穂も愚鈍な人間ではない。「そうですか」と早急に話を打ち切り、春日に話を振り直す。まだ時間はある。長谷川の画は、撮れる時に撮ればいい。


 寝室からリビングに戻る。リビングのアクアリウムが長谷川の趣味ではないかと期待して質問を投げてみたら、残念ながら春日の趣味だった。さて、どうしよう。このまま春日のアクアリウム語りを撮ってもいいが、ここまで春日ばかり撮っているし、初日の構成次第では別の日に回した方が良い。


 ――先に、あっちを撮っておくか。


「春日さん、長谷川さん」


 二人まとめて声をかける。長谷川は反応せず、春日が言葉を返した。


「なんですか?」

「インタビューの撮影、今から始めても良いですか?」


 視聴者に二人のことを分かってもらうため、最初にインタビュー形式の紹介パートを撮らせて欲しい。前もって質問リストと共に投げておいた依頼を引っ張り出す。おそらく今日のキーになる撮影だ。このパートで長谷川をどれだけ引き出せるかによって、今後のカメラの振り方が変わってくる。


「いいですよ。どうやって撮ります?」

「そこのソファに並んで座って頂けますか? それを前から撮ります」

「分かりました」


 春日がテレビ前のソファに腰かけ、長谷川が遅れてそれに続いた。志穂と山田は春日たちの正面にしゃがみ、撮影の姿勢を整える。


「ではこれから私が質問をしますので、それに答えて下さい。質問は主に事前送付したものを聞かせて頂きますが、流れ次第では違うことも聞きます。あとこれは視聴者のためのインタビューですので、私が既に知っていることを聞く場合もあると思いますが、その点はご承知おき願います」

「僕でも樹でも答えられる質問は、僕が答えていいんですよね?」

「はい。構いません」


 答えやすい方ならどちらでもよいので、長谷川さんでもいいですけどね。――止めよう。言ったところで、どうせ長谷川は前に出ない。


 咳払いをして、喉の調子を整える。ドキュメンタリーの構成上、名前や年齢などの基礎的な情報は先に語りやテロップで説明するから、ここでわざわざ聞き直す意味はない。最初は――


「付き合い始めてから、どれぐらいになりますか?」

「だいたい一年半ですね。去年の冬からなので」


 春日がハキハキと答えた。志穂もテンポよく質問を続ける。


「同棲を始めてからは?」

「ほとんど同じです」

「同棲のきっかけは?」

「樹がアパートを追い出されそうになっていたので、僕が誘ったんです。一人で住むには広かったし、ちょうどいいかなと思って」


 長谷川の名前が出た。すさかず予定になかった質問を投げる。


「追い出されそうになっていた、とは」

「仕事が無くなって、家賃が払えなくなっていたんです。ゲイであることをオープンにしていると、職場でも色々あるので」


 春日が長谷川に視線を送った。お前の話だぞという仕草に合わせ、志穂も動く。


「長谷川さんは、今も求職中なんですよね?」


 さて、どう出るか。緊張しながら見守る志穂とは対照的に、長谷川は気張ることなく答えた。


「そうですね。その時からずっとってわけじゃないですけど」

「同棲を始めてからも、仕事を失ったことがある?」

「失ったっていうか、まあ、辞めた感じです」

「やはり理解のある職場を見つけるのは難しいですか?」

「うん、まあ、普通の人はびっくりしますよね。そりゃ」


 寝室で話した時と同じ、表面を撫でるような回答。踏み込むのはまだ早そうだ。ここは春日に戻した方がいいだろう。


「春日さんは長谷川さんを家に呼んで、同棲にはすぐに慣れましたか?」

「生活が大きく変わったわけでもないですし、特に問題なく適応できました。良い意味で戸惑うことはありましたけどね。帰ったら食事が用意されている生活なんて、高校生の頃以来なので」

「料理は長谷川さんが担当されているんですか?」

「はい。本当に美味しいんですよ。初めて食べた時は感動して、同棲して良かったなーと思いました」

「胃袋を掴まれたわけですね」

「そうですね。それはもう、がっちりと」


 いい流れだ。炊事担当が長谷川なのは聞いていたし、何にせよ料理をする姿は撮る予定だったが、こういう前フリがあるとキャラクターがより明確になる。


「それで、楽しく同棲生活を送ることが出来たと」

「はい」

「パートナーシップ制度を利用することにしたのはなぜですか?」

「二つ、理由があります。一つは感情の話。これからもずっと一緒にいたいと思ったので、関係を証明する確かなものが欲しかった。だからペアの指輪を買って、パートナーシップの宣誓書を提出しに行きました。指輪はこれです」


 春日が左手の甲をカメラに向け、薬指に光る指輪を示した。魅せ方をよく分かっている。


「そしてもう一つは、権利の話。僕らのような同性カップルは、男女のカップルと比べてとても不安定なんです。例えば、僕らのどちらかが急な体調不良で倒れ、救急車で病院に運ばれたとします。そうなった時、病状説明を受けたり、面会をしたり、緊急手術の同意書にサインできなかったりします。長く同棲していて、男女ならば内縁の関係にあると認められるようなケースだとしても、同じように扱ってくれないことがあるんです」


 演説めいた語りが始まった。事前に送った質問リストの中には、なぜパートナーシップ制度を利用したのかという問いかけも入っている。律儀に考えておいてくれたのだろう。


「そしてそういう不平等は、パートナーシップだけでは解決しません。あの制度は自治体の仕組みだから、法的な効力はない。男女が結婚した時と同じように、遺産の相続権を得たり、所得税の控除を受けたりすることはできないんです。そういう権利が欲しいならば、やはり同性婚を行う必要があります。そして同性婚を実現するためには、同性カップルの存在を世間に知らしめる必要がある」


 世界を変える。いつか交わした握手の熱が、志穂の手のひらに蘇る。


「制度の利用には、その意味もありました。あればちゃんと使う人がいるんだと示したかった。そうしたらインタビューを受けて、それがインターネットに広がって、こうやってドキュメンタリーを撮って頂けることになった。僕らの日常を通じ、僕らのような存在が当たり前のようにこの国にいることを、皆さんに理解して頂ければ嬉しいです」


 春日が微笑んだ。完璧にドキュメンタリーの主旨を説明しきってくれた。撮影対象がこれをやってくれるなら、制作サイドからの押し付けがましいメッセージはいらない。次は長谷川にスポットライトを――


「あの」


 長谷川。


 話を振るよりも先に動かれ、志穂は少なからず動揺した。長谷川が積極的な姿勢を見せたのは初めてだ。どんな言葉が飛び出すのか、期待と不安を半々に込めて長谷川を見つめる。


「訂正いいですか」

「訂正?」

「はい。さっきの説明、嘘入ってたんで」


 春日が目を大きく見開いた。事前に打ち合わせた行動ではないことが、その表情から伝わる。


「公正証書を作れば、いざって時パートナーとして認められないことはない。養子縁組すれば法定相続人にもなれるし、任意後見契約みたいなものもある。めんどくさかったり、金かかったり、足りないところはあったりしますけど、やれることはあるんです。だから同性婚すればそういう権利が手に入るってのは本当ですけど、さっきこいつが言ってた、同性婚しないとそういう権利が手に入らないってのは嘘」


 長谷川が親指で春日を示した。彼らを有名にしたインタビューでも見せた仕草。だけどあの時と違い、指された春日は呆然としている。


「あと俺がゲイだから仕事辞めさせられたみたいな話も、言葉足りてないです。そういう理由で辞めることもありますけど、違う時もあるし、そもそもゲイだからってだけで人をクビにするのは違法だから、抵抗できるんですよね。ゲイでキモいからクビがありなら、オタクでキモいからクビとかもありになるでしょ。俺があっさり辞めるのはそれが楽だっていう、そんだけです」


 見誤っていた。


 流暢に語る長谷川を目の当たりにして、志穂は自分の失敗を自覚する。長谷川は前に出るのが苦手なのではない。興味のあること以外はどうでもいいだけ。謙虚ではなく、自由なのだ。


 そして志穂の経験から言うと、自由な人間を取材する時は、どうやって引き出すかよりどうやって抑えるかを考えた方がよい。例えば、インタビューを春日と長谷川で別撮りしていれば、流れをもっと志穂がコントロールできただろう。しかしもう、後の祭りだ。


「今のやつ、出来るだけカットしないで貰えますか」

 

 長谷川が前かがみになった。届く声が少し大きくなる。


「いきなり語っちゃったんで、使いにくい映像になってると思うんですよ。でも上手くやって欲しいんです。大勢の人が見るものなのに嘘っぽいこと言うの、やっぱ良くないと思うし」


 長谷川の鋭い視線が、志穂の眉間を射抜く。全てを見透かされているような気がするし、実際、見透かしているのだろう。少なくともカットしようと考えていたことはバレていた。その理由が「いきなり語り出して使いにくいから」ではなく、「ドキュメンタリーにとってノイズだから」だということも、おそらく。


「……善処します」


 曖昧な答えを返し、隣の山田に視線を逃がす。山田は張り巡らされた緊張に気づかず、とぼけた顔でカメラを回し続けている。その姿を見て志穂は、新人の頃の自分を怒鳴り散らした先輩たちの気持ちが、少しだけ分かった気がした。

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