暑がりな熱帯魚
午後五時、LINEで樹に『これから帰る』と連絡を入れ、佑馬はショッピングモールの散策を切り上げた。
すぐメッセージに既読がついたが、返事は一向に届かなかった。仲の良かった頃なら『夕飯は?』と返って来ただろう。この時間なら食べてこないだろうけれど、念のために聞いておく。そういう、あった方がいいけれどなくてもどうにかなるコミュニケーションは、もうほとんど取っていない。
マンションに着いた。ボトムスのポケットからキーケースを取り出し、鍵を使って総合玄関を開ける。エレベーターに向かう前に部屋のポストを覗くと、中から近所の料理屋のチラシが数枚出て来た。ざっと眺めて、そういうものを捨てるために備え付けてある、傍のゴミ箱に捨てる。
エレベーターで五階に上り、廊下を歩いて部屋を二つ通り過ぎる。「503」と記されたドアを開けると、デミグラスソースの香ばしい匂いがふわりと佑馬の鼻腔を撫でた。リビングキッチンのドアを開け、手前のキッチンスペースでIHコンロに乗せた鍋をおたまで掻きまわしている、エプロン姿の樹に声をかける。
「なに作ってんの?」
「ビーフシチュー」
同居を始めてからずっと、炊事は樹の担当だ。佑馬も出来ないわけではないが、樹にはまるで敵わない。同居したての頃はやたら凝った手作りの料理が出て来るたびに、ガサツそうな見た目から受けるイメージとあまりにもかけ離れていて、驚きと戸惑いと軽い敗北感を覚えた。
今でも樹は、断りがなければ料理を二人分作る。だけどそれを二人で食べようとはしない。出来上がったらさっさと一人で食べ始め、佑馬はそれに自分の食事を合わせるかズラすかを選択する。今この部屋に住んでいるのは二人ではなく、一人と一人なのだ。食事のみならず、全てがそうやって動いている。
「――樹」
神妙な声色を作る。鍋を掻き回す樹の動きが、ほんの少しだけ遅くなった。
「なに」
「今日から夕飯はなるべく一緒に食おう」
「なんで」
「撮影が始まったら、仲良いフリをしなくちゃならないだろ。だから今のうちに慣れておきたい」
「そんなの、どうにでもなるだろ」
「ならない。今日だって変な空気出てたぞ。自覚ないのかよ」
「あー、はいはい。分かった、分かった」
樹がおたまを持っていない左手を、佑馬に向かってひらひらと振ってきた。あっち行けのジェスチャー。「そういうところだぞ」という言葉が出かかったが、どうにか押しとどめて、リビング隅のアクアリウムに向かう。
スタンドの上の60センチ水槽を、腰をかがめて横から眺める。水草の合間を縫って優雅に泳ぐカージナル・テトラや、水生コケの上で細長いひげをひくつかせるヤマトヌマエビを眺めているうちに、苛立ちが治まってきた。立ち上がり、餌が詰まった筒状の容器を手に取って、食事をやろうと上から水槽を覗き込む。
「……はあ!?」
キッチンの樹が「どした?」の話しかけてきた。佑馬は振り向き、水槽を指さしながら答える。
「ゴールデン・ハニー・ドワーフ・グラミーが死んでる」
「魚?」
「そう。一週間ぐらい前に三匹入れただろ。あれ」
「全滅してんの?」
「いや、一匹だけ」
小さな網で死骸を掬い、手のひらに乗せて観察する。黄色と白を基調にした流線型の身体に、外傷は見当たらない。変色や斑点やこぶなど、病気を示唆する兆候もない。購入した時のまま、ただ呼吸だけを止めてしまったように見える。
「何がいけなかったのかな……」
「暑がりだったんじゃねえの?」
暑がり。どこかふざけたような言葉を耳にし、佑馬の眉間にしわが寄った。
「なんだよそれ」
「単に、その水槽が暑かったんじゃねえかなと思って。暑がりな熱帯魚だっているかもしれないだろ」
「水温管理はしっかりやってる。25度はゴールデン・ハニー・ドワーフ・グラミーの飼育温度として適温だ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「じゃあ、どういういうことなんだよ」
抑えた方がいいのは分かっている。だけど、抑えられない。
「お前はアクアリウムに興味ないし、魚一匹死んだぐらいでピーピー騒ぐなって思ってるのかもしれないけど、俺にとっては大事なものなんだよ。だからそういう、茶化すような言い方は止めろ。命の話だぞ」
佑馬が樹をにらむ。水槽のポンプがプクプク空気を吐き出す音と、ビーフシチューの鍋がグツグツ煮える音が、二人の間の沈黙に溶けて混ざる。やがて樹がふっと視線を落とし、小さな電子音が静かな部屋に響いた。
ピッ。
樹がIHコンロの電気を切り、鍋の煮える音が止まった。そして外したエプロンをキッチンワゴンにしまい、玄関に向かうドアを開く。立ち去ろうとする素振りを前に、佑馬は慌てて声をかけた。
「どこ行くんだよ」
「散歩。ビーフシチューはもう出来てる。サラダはいつも通り冷蔵庫」
樹が振り返った。生気のない目を佑馬に向け、口を開く。
「一緒に食うのは、明日からな」
バタン。樹がリビングから出て行き、佑馬は肩を落とした。アクアリウム用品の小さなバケツにゴールデン・ハニー・ドワーフ・グラミーの死骸を入れ、かけていたショルダーバッグを床に置いて洗面所に向かう。洗面所で手を洗った後は、キッチンとリビングを往復して夕飯の準備。テレビ前のローテーブルにビーフシチューとサラダとライスを並べ、手を合わせて呟く。
「いただきます」
スプーンを手に取り、ビーフシチューをすくう。シチューの絡んだ人参を口に運んで噛むと、よく煮込まれた実がほろりと解け、優しい甘みがデミグラスソースの酸味に広がった。美味い。これだけの腕があり、それを生かせる職に就きながら、どうしてあっさりと辞めてしまうのだろう。仕事に適性があることと長続きすることは別だと分かってはいるけれど、やはり納得いかない。
最初から、だらしのない男ではあった。
そもそも同棲に至ったきっかけが、マッチングアプリで出会って逢瀬を重ねているうちに、樹が「家賃を払えなくてアパートから追い出されそう」と言い出したからだ。それを聞いた佑馬が「ならうちに来ればいい」と誘ったのが全ての始まり。その時から樹は短期間で仕事を変える落ち着かない生活をしていて、だけどその時は、佑馬もそれで良かった。性的指向をオープンにしている樹が良い職場に巡り合うのも難しいだろうから、長い目で見てやろうと考える余裕があった。
しかし、樹のだらしなさを間近で目にするにつれて余裕は薄れ、どうにか出来ないものかと考えるようになった。パートナーシップ宣誓を行ったのもその一つだ。公的に認められた関係になれば背筋が伸び、その日暮らしな生き方に変化が訪れるのではないか。そんな淡い期待を抱いていた。
しかし変化は、佑馬の方に訪れた。
佑馬はツイッターをやっていない。だけどインタビューが拡散され、様々なパロディが生み出され、樹の「こいつが嬉しいなら、嬉しいですよ」という台詞に「うれうれ」という略称がつき、創作サイトの用語辞典に登録される事態が、とんでもないことだというのは分かった。そしてそのムーブメントを、満更でもない気持ちで受け止めていた。インターネットの人々は佑馬と樹を「理想のゲイカップル」のイコンとして扱っており、それが誇らしかったのだ。
ある日、佑馬が樹と街を歩いていると、自身もセクシャル・マイノリティだという中学生の女の子に声をかけられた。佑馬と樹に対する憧れを熱っぽく語り、うっすら涙ぐんでいた女の子を前に、佑馬はこの子の期待を裏切ってはいけないと思った。自分たちの残した足跡を辿って、後に続く仲間たちが迷うことなく前に進める。そういう存在になろうと密かに誓った。
だからその翌日、しれっとコンビニのアルバイトを辞めて来た樹を説教し、次の仕事が半年続かなかったらこの家から出て行ってもらうと突きつけた。
樹はそれを受け入れた。そして持ち前の料理の腕を生かせる、レストランバーの厨房担当の仕事を見つけて来た。いつも行き当たりばったりだった樹が適性を考えて仕事を選んだことに、佑馬は確かな手応えを感じた。自ら店に出向いたり、友人や会社の同僚に店を紹介したりして、外堀を埋めて樹が辞めづらくなる雰囲気を整えていった。
二ヶ月後、樹は店を辞めた。その理由を尋ねる佑馬に、樹はこう答えた。
「なんか、合わねえ」
そして、今。
佑馬と樹は同棲を続けている。しかし、いざこざが解決したわけではない。樹がレストランバーを辞めてすぐ、大学時代に所属していたLGBTサークルの先輩からドキュメンタリー撮影への協力を頼まれなければ、とっくに関係は解消されていただろう。そうでなければ今、佑馬は一人で夕飯を食べていない。
顔を上げる。テレビ台の上のデジタルフォトスタンドを見やり、青空をバックに肩を寄せる自分と樹を目にして気を沈ませる。去年、樹の誕生日記念として、二人で江ノ島まで旅行に行った際に撮った写真。茅野には今年もどこかに行くと言ってしまったが、果たして行けるのだろうか。そして行けたとして、撮影に値するようなイベントになるのだろうか。
俺たちは、どこで道を間違えてしまったのだろうか。
考える。だけど不毛な気配を感じ、すぐに止めて食事に戻る。死んでしまったゴールデン・ハニー・ドワーフ・グラミーをどこに埋めよう。そんな暗いことを考えながら食べるビーフシチューは、それでも普通に美味くて、訳もなく腹が立った。
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