茅野志穂という女

 スマートフォンの液晶をタップして動画を止めると、まるでそれと連動しているかのように、乗っているワゴンが赤信号に引っかかって停まった。


 カーナビに目をやる。目的地まではおよそ十分で、待ち合わせ時間まではおよそ二十分。相手の方が先に着いていてもおかしくないぐらいにはギリギリだ。予想外に長引いた前の撮影を思い出し、志穂しほは苦々しく唇を歪めた。


「志穂さん。『特別な気分』ってネタ、知ってます?」


 運転席から、カメラマンの山田やまだが声をかけてきた。二十歳そこそこの若者らしい張りのある元気な声が、今は焦りが足りないように思えてイラついてしまう。映像制作業界に身を置いて数年、こういう場面で理不尽に当たり散らすディレクターを腐るほど目にしてきた。だから志穂は、そうしない。


「知らない」

「だいぶ前にツイッターでバズった、街頭インタビューの切り抜き画像っすよ。雪の日にインタビューされたカップルの男が、彼女と一緒にいる時の雪は特別な気分で嫌いじゃないとか言って、それがネットでウケたんす。オタクが自分の好きなアニメキャラに真似させたりして、要するに、いま志穂さんが見てた動画と同じことになったんすね」


 信号が青に変わった。ワゴンが発進し、シートベルトに胸部を圧される。なんてことのない些細な圧迫が、余裕のない今はやたらと不愉快だ。他人より大きな胸を持ったことによって味わってきた不快な経験が、シートベルトの下からにじみ出ているような気さえしてくる。


「それ、彼女の方は俯いて顔を隠してるんすよ。恥ずかしー、けど嬉しーみたいな。それがめっちゃかわいくて、バズるの分かるわって感じなんすよね。そんで、さっきの動画の男も同じことしてたじゃないっすか。そっちは野郎だし、オレは全然かわいさは感じないけど、たぶんそこがウケたんだろうなーって思うんすよ」


 だからどうした。――言わない。山田の話にオチがないのは、いつものことだ。


「かもね」


 適当に相槌を打つ。山田もいずれは志穂と同じようにディレクターになりたいそうだが、この話を散らかす悪癖をどうにかしないと難しいだろう。交渉に上手く進めるために言葉をまとめる力は、ディレクターの必須スキルだ。特に『ライジング・サン』のような、ディレクターが一人で仕事を進めることが常態化している、小さな映像制作会社では。


 これから顔合わせを行う案件も、当然のようにそう進んでいる。

 

 ローカルテレビのインタビュー動画がツイッターで拡散され、インターネットで有名になったゲイカップルに、密着取材を敢行しドキュメンタリーを作成する。今のところ『ライジング・サン』でこの案件に関わっている人間は、志穂と山田の二人だけだ。そして今後も増えることはないだろう。その余裕があるならば、志穂も山田も今頃は日曜を満喫している。


 もっとも、志穂はそれを恨んではいない。仕事は嫌いではないし、特に今回のドキュメンタリー撮影は、まさにこういうことがやりたくてこの業界に入ったと言えるようなものだ。芸能プロダクションこそ絡んでいないものの、プロデューサーはキー局の人間であり、決して小さな仕事ではない。


 だからこそ、撮影対象との初対面の場に遅れて着くという、間の抜けたスタートは切りたくない。


 ――せめて、この子がもう少し使えれば。


 運転する山田の横顔を見やる。張りと潤いのある肌が五月の陽光を反射し、キラキラと目に眩しい。だが一般的には好ましいとされるこの若さは、仕事では不利に働くことが多い。舐められるのだ。志穂自身、思い返すのも面倒になるぐらい、若い女というだけで甘く見られ続けてきた。


「志穂さん」


 フロントガラスを見つめながら、山田が明るい声色で話しかけてきた。


「これから会うやつらって、どっちが女役なんすかね」


 ――こいつ。


 同性愛者に聞いたら失礼なこと百選を作ったとして、一つ目か二つ目に来るであろう質問。勉強しておけという指示を守っていないのか。あるいは、志穂ならいいと判断にしたか。どちらにせよ、見過ごせない。


「山田くん」喉を絞る。「今の、本人に聞いたら、カメラマン変えるからね」


 山田が「えー」と不満そうな声を上げた。不満なのはこっちだと思いつつ、揉めても何の得にもならないので黙る。そして胸の下で手を組んで目をつむり、自分たちが早く目的地に着くことと、相手がそれよりも遅く着くことを祈った。

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