第207話 泥中の蓮 ~よっつめ~
「学校は楽しかったかい?」
「うんっ! 給食、うまいなっ!」
思ったのと違う反応…… いや、ある意味、想像通りな答えにテオドールの眼が生温く緩む。まあ、それでも良いと。このまま休まず通って読み書きや計算を覚えれば、これからのマキの人生に役立つことは請け合いだ。
「そうか。学校は週末以外やっているからね。毎日通える子は少ないんで授業の進みもゆっくりだし、無理なく学びなさい」
「うーん、飯は魅力的なんだけどなあ。やっぱ父ちゃんが気になるし。教わることも、あんまなさそうだしなぁ」
……うん?
テオドールは笑顔のまま眼をしばたたかせる。
「教わることが……?」
「うん。先生も俺に算術を学ぶ必要はないだろうって。文字も必要なのはあらかた覚えたしなあ」
………?
のほほんっと話すマキを見て、テオドールは妙な違和感が拭えない。何が違うのか分からないが、昨日のマキとは明らかに違う。
「じゃ、あれ読めるかい?」
彼の指差す先には洋品店の看板。
しばし考え込んで、マキはしょぼんっと項垂れた。
「……わかんない」
「じゃあ、あっちは?」
「あ、あれはわかる。八百屋だろ?」
ばあっと輝く無邪気な瞳。
なるほど? と、テオドールは納得する。
「君が覚えたのは亜字だね。子供にも分かりやすい簡単な字だ。前に指した看板は洋品店。こちらは朗字といって、かなり難解な文字だよ。他に文法とかもあるし、たぶん、まだまだ学ぶことは多いと思う」
アルカディアの文字は世界共通。覚えやすい簡単な文字と多岐に亘る複雑な文字があるのだ。
マキが覚えたというのは簡単な方の亜字である。
「そっか……」
すっかり気落ちしてしまったようなマキを見てテオは狼狽え、慌てて話を変えた。
「そうだ、他にも図画工作とか調理実習とか、もっと楽しい授業もあるんだよ? 今日はなかったかい? 絵を描いたりさ」
「絵? 絵が描けるのか?」
「ああ、フロンティアには安価な水彩絵具っていうのがあってね。子供らにも絵が描けるんだ」
うわあっと興味津々な顔でマキはテオドールを見上げた。
フロンティアと違い、他の国では絵画が発展していない。そのような高尚な趣味は貴族階級のお遊びだった。絵具一つにしたところで高価な鉱石などで作られており、とても庶民に手の出るものではないのだ。
そういった油絵関係すらまだ走りで、ようよう最近、肖像画などの絵が描かれるようになったばかりである。
「俺、父ちゃんの絵を描きたいなぁ。母ちゃんの絵と並べて飾るんだ」
「お母さんの?」
「うん。俺、母ちゃん知らなくてさ。ちっさい頃に死んじゃったらしいんだけど、父ちゃんが祭りの絵描きに似顔絵描いてもらってたって。飾ってあるんだよ?」
にししっと笑う幼女を訝しげに見下ろし、テオドールは眉をひそめた。
ドニとマキは移民だ。フロンティア以外で気軽に絵を描く文化はない。鉛筆や木炭のラフだろうか?
ふうむと口元に手を当て、やや興味をそそられたテオは、その絵を見せてもらおうとドニ親子の泊まる宿屋に同行した。
「……………」
「綺麗でしょ? 俺の母ちゃん」
にぱーっと笑うマキの声など聞こえていないテオドール。
そこにあった絵はレタリングの量産品。それも芸術劇場オープン初期に販売されたオフェーリアの姿絵である。
すぐに新たな姿絵が次々と出されたためこの絵の数は少ないが、劇場ロビーには歴代の姿絵が飾られているので彼も見たことがあった。
……マキはドニに騙されている。
どこで手に入れたか知らないが、これをマキの母親なのだと偽る理由が分からない。子供に夢を持たせたかった? 母を知らぬ子を憐れに思って?
だからって騙す必要はないだろう? 王都で暮らすなら、いつかは芸術劇場に赴くこともあるかもしれない。その時、真実を知ったマキがどれほど傷つくことか。
知らずテオドールの拳が握りしめられる。
ドニの客室で少年が憤っていた頃。
マキの父親は、少し離れた宿屋で恋人との情事を終え、一息ついていた。
「ねえ? なんで、あんな嘘をついたの?」
「ああ?」
やや不機嫌に視線を流し、ドニは煙草を噛み潰す。
「あの兄さんにさ。マキの寝てる部屋でしっぽりしたことなんかないじゃない。いつも別の宿でしか」
「……………」
「まあ詮索はしないけどね。あたしゃアンタと身体の相性が良いし? その気があるなら亭主にしても構わないと思ってるんだ」
「……本気か?」
信じられない面持ちで、マジマジと女を見つめ、ドニはしばし考え込む。そんな彼の背中にしなだれかかり、女は悩ましい仕草で彼の太腿を撫でた。
「おうさ。コブ付きでも良いと思うくらいにはね。……不思議なもんさな。裏の仕事を斡旋してただけなのにねぇ。こういうのも縁だあねぇ」
そう。この女はドニにとって仕事を回してくれる貴重な人間だ。ご禁制の商品の密輸や借金の取り立てなど、少々危ない橋を渡るモノが多いがその分報酬も多く、マキを育てなくてはならないドニには渡りに船だった。
そしてマキがスリなどやらかすのを黙認する理由でもある。
裏稼業をしている自分は、いつ何時、命を失うか分からない。アレが一人でも逞しく生きていけるよう、多少のやんちゃは目を瞑った。
この女と関係を持ったのもマキのためだ。自分に万一があれば、この女はマキの面倒をみてくれると約束した。だからドニも、こうして身体を重ねているのだ。
だが、この女が如何に妖艶に誘おうとも、彼の脳裏を占めるのは可愛い愛娘。マキのことを考えるだけで胸が一杯になり、この腕に掻き抱きたくなる。
ある意味、病的な執着。
「マキにも母親が必要だろう? 考えてみておくれよね」
しゃなりと立ち上がると、女は薄衣を身に着け、真っ赤な紅を引いた薄い唇に弧を描いた。
「どういうことだと思うっ? いずれバレるだろう嘘をついてさっ! 子供だからって侮り過ぎだよねっ?!」
憤慨も露に捲し立てるテオドールを胡乱げに見据え、小人さんは別なことに意識を持っていかれる。
飯が魅力的…… 文字はあらかた覚えた…… 似顔絵描き…… ちょっと待ってよ?
「テオ…… その子、可怪しくない?」
「え?」
神妙な面持ちで千尋に見つめられ、テオドールの胸に嫌な予感が過った。
「子供らしくないとかって範疇を越えてるよね? それになに? その子に教師が算術を要らないって言ったって? 学習院は高等部まであるんだにょ?」
はっとテオドールの顔が強張る。
彼が感じた違和感は、それだった。
昨日までは、口が達者ではあるが子供らしさが溢れていたのに、今日のマキはそれが薄れている。
まるで妙齢の女性を相手にしているような。そんなしっとりとした雰囲気があったのだ。
「そういう人間に、ちょいと心当たりあるわぁ…… その親子の宿屋に案内してくれない?」
小人さんの言わんとすることを察し、テオドールの瞳が大きく揺れた。
マキは気づいていない。ドニのことを想う時、彼女は知らず素を出してしまっていることに。
あえて子供らしく振る舞っている猫が、四方八方へと飛び去っていることに。
得体の知れない幼児の秘密に手をかけ、小人さんとテオドールは件の親子の宿へと足を向ける。
今現在、そこがド修羅場だなど、無言で向かう二人には分かりようもなかった。
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