第203話 泥中の蓮 ~ふたつめ~
「出来ないなら学べば良いのですよ。幸い我が国には無償の学校がありますし」
「………俺が仕事しなきゃ、ここの宿代も払えないし娘も食わせられないんだが?」
「俺が稼ぐよ、父ちゃん」
「スリは許しません。騎士団に垂れ込みますよ?」
喧々諤々と言い争う件の父親とテオドール。その合間にチュンチュン嘴を挟む幼児様。
彼等は他国からの移民で元農夫だったという。父親の名はドニ。娘はマキ。
魔物に辺境を荒らされて、にっちもさっちも行かなくなった流民がフロンティアに入国しているのは知っていたが、このような状況に陥っているとテオは知らなかった。
フロンティアはアルカディアでも、唯一識字率百パーセントを誇る国である。そのため、当たり前のように読み書きや計算が就職の基準になっていた。
出来ない者がいるとは思ってもいないのだ。なので、読み書きが出来ないというだけで雇い入れてもらえない。
さらには魔力で個人を判別可能な御国柄ゆえ、至るところで身分証明が必要とされる。一番良いのはギルドカード。冒険者や薬術、商業、漁業など、フロンティアには多くのギルドが存在した。
そのどこでも良いのでギルドカードを作れば身分証になるのだが、この二人、洗礼すら受けていないらしい。
「この国に対して信を誓う儀式なんだろ? ……移住してきておいて何なんだが、祖国にも情が残ってる。碌でもない国だったけどな」
ここで、思いも寄らない弊害をテオドールは見つけた。
忌々しげな顔をしつつも吐き捨てるドニ。
しかし、聞けば無理からぬこと。生まれ育った祖国と完全に決別するのは誰だって難しいに違いない。フロンティアは魔法の生きる国。神々を謀るようなことを神殿で口にしたら天罰覿面だ。
その未知の恐怖ゆえ、洗礼を受けられない者も多いだろう。洗礼を受けなくば属性や魔法も賜れず、結果、ギルドに登録不可能になるのだ。
今の状況、こんな人々もきっと数多にいる。たまたまテオドールの視界に紛れ込んだマキがおらねば、未だに分からない弊害だったかもしれない。
どうにもならない現実を理解して、テオは深い溜め息をついた。
「……なるほど。でも、あなたは大人で父親なのです。あまり爛れた生活はお勧め出来ません。僭越ながら、僕が後見人になって仕事の斡旋を………」
言いしれぬ憐憫の情に溺れ、テオドールは王宮の下働きにでもドニを就かせようと考える。
王宮ならテオの裁量も利くし、何より色々学ばせられ、越権ではあるが、正直、王子である彼に出来ないことではない。
だが、テオドールが言い終わるよりも先に、唸るようなドニの声が聞こえた。
「……侮るなよ、小僧。お前がどこのお偉いさんか知らねぇが、人に施しを受けるほど、こっちは落ちぶれちゃいねぇんだ」
……覚られた。
いや、十分落ちぶれているだろう? と思いつつも口の端には上らせず、テオドールは悔しげに唇を噛み締める。
彼らには彼らなりの矜持があるに違いない。人様から施しを受けるくらいなら悪事に手を染めた方がマシだとか。
善悪の判断ではなく、価値観の差異。噂によれば、他国は子供や女を拐ってきて売り払うという。フロンティアでも、そういった人拐いの話はたまに聞く。
己が生きるための犯罪に、全く忌避感がない。もちろん捕まれば罰せられると理解した上でやっている。
そうなっても運が悪かったと思うだけだというから、空いた口が塞がらない。
この二人も、そういった国から流れてきたのだろう。生まれもって培われた倫理観は、そうそう覆せない。
黙り込んだ少年を見て、ドニは嘲るように睨みつけた。
「気持ちだけは有り難く受け取っておくわ。だがな、俺みたいな人間は、この国にごまんと居るんだよ。その全てに施すつもりか? 眼の前の汚え人間が見目よくなれば満足なんだろ? なあ、そういうのを何つーか知ってっか? ……偽善っつーんだよ」
臭いものに蓋をしたい傲慢な行い。
そんなことは百も承知だったテオドールだが、面と向かって自覚させられると、かなり来るものがある。
正論でけんもほろろに追い返され、取り敢えず子供にスリはやらせないという約束だけを取り付けつつ、テオドールは意気消沈して帰路についた。
「……うーん。正直、テオが行き過ぎだと思うよ?」
「うん…… 分かってはいるんだ。彼等には彼等の暮らしがあって、それが気に入らないからって踏み込みすぎだよとはね」
ここは某伯爵邸。
血の繋がりはないものの、魂の繋がりがあり、国王の養女になった妹の居る邸。通称小人さん。
「難しい問題でございますね。しかし父御は子供に悪事をやらせないと約束なされたのでしょう? ならば、そこで手打ちにする他ないように思いますが」
「そうですね。私も良い生まれではございませんが、今のように暮らしております。人生、幼少期ばかりが全てではありませんよ?」
複雑に顔を見合わせる伯爵家家人のナーヤとサーシャ。
「うん、分かっているんだ。でも、なんか放っておけなくて……」
子供に悪事を働かせない。そんな最低限の道徳が通らない世界もある。それをさせる世の世知辛さ。綺麗事で腹は膨らまない。容易く金子が手に入れば、人間、欲も出るだろう。善悪だけで判断すべき事象ばかりではない出来事に初めて直面し、若いテオドールは戸惑っていた。
どんな美辞麗句で飾ろうと、どのような致し方ない境遇であろうと、犯罪は犯罪だ。やらないで済むなら、それに越したことはない。
そういった事象を冷徹なボーダーで裁定するのが司法だ。しかしその司法にも、情状酌量といった救済が残されている。
あの親子に罪を犯させないためには、その基盤となる生活環境が必要だ。だが、それを人に与えられることを彼らは施しと捉える。
聞く人が聞けば要らぬプライドだと思うだろうが、人間、誰しも譲れぬラインはあるものだ。それを踏みにじられたら、この先一生恨まれるだろう。
彼らには受け入れがたいに違いない。
これはテオドールの手に余ることだった。
深い溜息を幾つも胸に溜め込み、鉛を呑み込んだかのように無言なテオドール。
それを眺めつつ、千尋はトントンと自分の頬を指で叩いた。
「要は、その子供が気になるってことなんしょ? なら、学習院を子供に勧めたらどうよ? 父親も働かなきゃなら、子供を学校に預かってもらうのは助かるんじゃ?」
目から鱗のテオドールを見て、思わず笑みの深まる小人さん。
彼は件の親子の境遇を何とかしようと足掻いていたが、人間、押し付けには反発をするものだ。ならば変化球で。子供が楽しく学校に通うようになれば、父親の態度も和らぐかもしれない。
学校は無償だし、何より昼食も出る。肉肉肉と連呼する子供らしいが、同年代の子供らに触れれば、また新たな楽しみを見出すかもしれない。
碌でなしな父親と二人きり、酒や色事を横目に暮らすより、ずっとマシなはずだ。
伯爵家の応援を背に、テオドールは再び件の親子の元を訪うと決めた。
「おもしれー兄ちゃんだったな?」
にししっと笑う娘を一瞥して、ドニは忌々しげな顔で煙草を噛み潰す。
「ああん? 青臭いことばっか言いやがってクソつまらねぇわ」
ドニは今日の稼ぎから銀貨を抜き、鞄にしまってあった空き缶に投げ込んだ。じゃらっと音のたつ空き缶は重く、そのズッシリとした重みに彼はほくそ笑む。
これはマキを嫁に出すときの資金だった。古い田舎街育ちのドニ。彼の街では、女は嫁入りの時に持ち込んだ財産を一生の糧とするのだ。
持参金が少ないと婚家に何かあった時、援助したり、身の振り方を考えることも出来ない。それが出来ない嫁は、嫁ぎ先で肩身の狭い思いをすることになる。
可愛いマキにそんな思いをさせないよう、ドニはコツコツと銀貨を溜め込み、大銀貨へ。最終的には金貨と両替し、マキの嫁入りに持たせてやるつもりだった。
.....花嫁衣裳や嫁入り道具も婚家に舐められないよう、とびっきりなのを用意したいしな。幾ら貯めても困らないさ。
ふっと笑うドニは知らない。
その様子を窺っていたマキが、呆れた顔で眼を据わらせていたことを。
「………あんたも懲りねぇなあ」
「今日はマキに…… その、元々、子供達が通う学校なので」
ありったけの勇気をふりしぼってやってきたテオドールは、控えめにドニ親子の部屋の扉をノックした。
それに応じて出てきた父親は、小脇に女性を抱えている。いかにも情事の後でございますな薄衣一枚の女性を。
その女性はフロンティアの人間のようで、学校と聞き、軽く眼を見開いていた。
「アンタ、マキを学校にも通わせてなかったの? やだ、フロンティアでは親の義務よ」
よくぞ言ってくれた。
思わぬ援軍を得て、テオは、ほっと胸を撫で下ろす。
「そうなのか? 知らなかったぜ。おぅーい、マキぃ。おめぇ、学校とやらに行ってみたいか?」
「……うにゃ? がっこう? うまいモン出るのかぁ?」
奥から聞こえる声に、ざーっと血の気を下げるテオドール。日本で言えば畳八畳くらいの狭い部屋だ。しかもベッドは二つしかない。
そんな部屋でドニにしなだれかかるは艶かしい女性。ってことは、つまり.....
「あなたっ! マキの居る部屋でいたしていたんですかっ?!」
何を? とは問わず、にや〜っと相変わらずな笑みを浮かべるドニ。
「青いなぁ、兄ちゃん。これくらい、どうってことなかろうや。まだマキのが、よく知ってんぜ?」
わなわなと震えるテオドールを余所に、ドニの隣の女性が妙な視線をドニに送っていたが、怒り心頭なテオは気づいていなかった。
「マキ、これを着ていきなよ」
「うるさい、黙れ」
マキは女性の差し出す洋服を噛みつくように睨み、いつものツンツルてんなズボンとシャツに、サイズアウトして丈の短いポンチョを着る。
少し気落ちした風情の女性が手にしていたワンピースは可愛らしいモノだった。
シンプルだけど丈夫そうで今のマキにピッタリなサイズ。よくよくベッド周りを見れば、マキ用と思われる真新しい靴や帽子も転がっていた。
枕元に置かれた縫いぐるみやオルゴール。なんのかんのと子供の物が目立つ。
「好きにさせとけや。そのうち色気づいて、新しい服にも袖を通すって」
ドニは娘の見てくれに無関心なようだ。本人の着たいようにさせているのが窺えた。
どうやらマキが、好んでツンツルてんを着ているだけらしい。
.....貧困なわけじゃないのか? 貧しくはあるんだろうけど、子供の物をキチンと揃えてはいるんだな。
少しだけドニを見直したテオドールだが、彼の態度の悪さだけは如何んとも受け入れ難い。
卑な嗤いでひらひらと手を振る父親からマキを奪い取り、テオは王都外郭に位置する学習院を目指す。素直にてこてことついてくるマキを連れて。
「がっこうってのは何だ? うまいモン食えるとこか?」
君の頭の中って食べ物のことだけなのかい?
はあっと細い溜息をつき、テオドールはなぜにこの幼女が気にかかるのか分かった気がする。
この御子様、小人さんにそっくりなのだ。
子供離れしたおませな言動や、その食い意地。やけに大人びて落ち着いた風情。悪いことを自覚しながら、それがどうしたとばかりに猪突猛進する確信犯的な大胆さ。
まるで昔のファティマやチィヒーロを見るようである。そのスケールは非常に慎ましいものだが。
「学校ってのは沢山の子供を集めて勉強を教えてくれるところだよ。文字の読み書きや、計算とかね。絵を描いたり物を作ったりもするし。ああ、孤児院でも似たようなことを出来るね。調理や裁縫なんかの職業訓練をボランティアが教えてくれるし」
「職業訓練っ? 父ちゃんもやれっか? なあっ!」
ぱあっと煌めく無邪気な顔。こういうところは年相応だ。テオの胸が少し温かくなる。
その笑顔の理由が、あのクソ親父なあたりに少々モヤるが、そんなのは些細なこと。
「もちろん。誰でも受け入れてくれるよ」
「やったあ、帰ったら教えてやろう」
にししっと笑う顔も小人さん張り。
世に似たような人間は三人いるとか迷信にあるが、思わず信じそうになってしまうテオドールだった。
「ようこそ学習院へ。マキさんですね? 私は院長のジールといいます。よろしくね」
好々爺な面持ちの男性は白髪交じりな焦げ茶色の髪を首元で緩く結わえた美丈夫だ。過去に騎士の経歴を持ち、王宮の派遣で学習院に務めている。
王宮の管轄な学習院にはこういった人々が溢れ、有事の際に生徒を守れることが大前提になっていた。騎士あがりの教師が多いせいか、子供らも規律正しく勇猛に育成されている感が強い。
悪いことではないはずなのに、なぜか一抹の不安が脳裏に過るテオドールである。
「とりあえず幼少部にお願いします。読み書き全て出来ません。あと、え〜…… 言葉遣いに、かなり難があります」
言われて条件反射のごとくテオドールの脚を蹴るマキ。言葉は分からねど、何となく馬鹿にされた気がしたらしい。
いてっ! と呻くテオドールに眼を細め、ジールはマキの前にしゃがんで、その顔を覗き込んだ。
「なぜに蹴りましたか?」
「こいつ、俺のことを馬鹿にしただろうっ?」
「そのように感じましたか?」
「うんっ!」
大威張りで胸を張る幼児。それに淡く笑みをはき、ジールは大仰に頷いて見せる。
「だそうです。悪いことは言えないものですね」
「……精進します。悪気はなかったんだよ。ごめんね、マキ」
子供は敏い。これは理屈ではない。野生の本能とでも言おうか、ときおり獣じみた直感をみせることがある。マキは特にその傾向が強いようだ。
そんなとこも小人さんにそっくりだと、テオドールは苦笑いする。
テオから肯定の言葉を引き出して、ジールはマキを見下ろした。
「だそうですよ。あなたも蹴ったことを謝りましょうね? マキ」
「なんでっ? コイツが俺を馬鹿にしたのが悪いんだ! 俺、悪くないっ!」
「ならば、そのように言葉で言わなくては。言葉には言葉で返すのです。それが同等。言葉に暴力で返すのは過剰です」
「かじょう?」
「やり過ぎということです。マキは悔しい思いをしました。それを痛い思いで返した。これは同じだと思いますか?」
「うーん……?」
「たとえば、マキが美味しいモノを貰ったとしましょう。それを誰かに取られたとします。マキはどうしますか?」
「取り返すっ!」
「そうです。取られたら取り返す。それが同等です。ならば悔しい言葉を言われたら?」
「……言い返す?」
小首を傾げて疑問げに答えた幼児に満面の笑みを浮かべ、ジールは大きく頷いた。
「そうです、マキは賢いですね。言われたら言い返す。殴られたら殴り返す、蹴られたら?」
「蹴り返す!」
「良く出来ました♪」
えへへと笑う幼児と初老の男性の微笑ましい光景。なぜかそれに空寒いモノを覚えて、テオは無意識に腕をさする。
いや、前半はともかく、後半はどうだろう?
要は『目には目を歯には歯を』なのだが、ここで幼児に教えるべきことだろうか。教え方にも一抹の不安を覚えつつ、素直に謝るマキに感無量のテオドール。
ああ、変な人だが、教育者なんだなあと失礼な感慨に彼は浸った。
そしてマキを学校に預け、帰りの時間に迎えに来ると言い残して立ち去るテオを、ジールこそが驚愕の面持ちで見送る。
……王子が送り迎えするって。この子何者だ?
目は口ほどにモノを言うというが、百戦錬磨の元騎士様は心の動揺を上手に隠し、マキの手を引いて幼少部へと向かった。
こうして、新たなドタバタ物語が幕を上げたのである。
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