第202話 泥中の蓮 ~番外編エピソード・テオドール~


「待てっ!」


「離せぇぇっ!」


 ここはフロンティア王都、芸術劇場正面の雑踏。そこでテオは一人の幼児を捕まえる。


 時を遡ることテオドール十五歳。


 小人さんがはっちゃけてオープンした芸術劇場は、連日の盛況を見せていた。


 王侯貴族らにも好評で、身分の貴賤なく誰もが訪れる森林公園。賑やかなそこを通り抜けたテオドールは、芸術劇場の新たな新作に期待を膨らませる。

 護衛騎士らに付き添われつつ、テオドールと妹のファティマは、学友らも誘って楽しそうに開演を待っていた。

 屋台の食べ物を購入し、あえて王族専用ボックス席でなく一般席での観劇に胸をワクワクさせる。


「買い食いなんて初めてだわ」


「わたくしは何度かありましてよ? 凝った物ではありませんけど、素朴で美味しゅうございますわ」


 きゃっきゃ、うふふと惜しげもなく笑顔を披露する可愛らしい少女二人に、同行していた騎士やテオドールの学友らは眼福だと眼を細めた。

 ファティマはテオドールの双子の妹。過去に紆余曲折な奇々怪々があって少々複雑な生い立ちを持ち、周囲から腫れ物扱いを受けて、長く寂しい学院生活を送っていた。


 そんな妹に初めて出来た友人。


 平民だが豪商の娘で竹を割ったような性格をし、妙な差別を受けるファティマを放っておけなかったらしく、なにくれと世話を焼いていたらしい。

 もちろん、完全な善意ではないだろう。それなりの目論見や下心があるかもだが、それでも良かった。

 親しい友人というものに焦がれ、こういった些細な交流を夢見ていた妹に、テオドールは水を差しはしない。


 この友人とやらが悪さをしないよう、自分が眼を光らせておけば良いのだ。


 穿ち過ぎなシスコン兄。


 だが、そこでちょっとした揉め事が起きる。なんと、可愛いファティマにスリを働く不届き者が現れたのだ。

 

 その犯人は軽く持ち上げられる小さな子供。がっちりと襟首を掴み、テオドールは憤慨も顕な顔をしている。

 足を浮かせてジタバタと暴れる幼児は目深くフードをかぶり、短めに見えるポンチョはサイズが合っていないらしい。シャツやズボンもつんつるてんで、見るからに貧困層な姿のソレ。

 このフロンティアの王都に、こんな貧しい姿の者がいようとは。別の意味でも愕然とするテオドール。


 その日を彼は忘れないだろう。


 まだ年端も行かない、この幼女の鮮烈な人生の始まりを。

 



 皆で演劇観賞に訪れたテオドールは、ふと、よたよたと歩く小さな子供に気づいた。よれよれのフードと素足に木靴の哀れな姿。


 衛生観念や福祉の充実したフロンティアで、あのような服や木靴など有り得ない。

 孤児院には善意による多くの古着が寄せられていて、子供らが仕立て直したソレを日常的に貧民層に配布しているし、靴なども同様だ。

 ボランティアの職人らが修繕した古靴や古鞄。家具などが其々の店先で売られていた。超安価で。

 ボランティアの経費は王宮に申請すれば負担してもらえるため、見習いの練習に丁度良いと、どこの店も快く請け負ってくれる。

 新品の十分の一の値段だ。子供が親から貰う小銭でも買えるはず。それにも手が届かない貧民などフロンティアには存在しない。


 大丈夫か、あれ……


 テオドールに凝視されているとも知らず、その子供はよたついたまま、彼の隣にいたファティマにぶつかる。……と、その瞬間、子供は目にも止まらぬ早業でファティマのバッグの底を切り裂いた。

 バラっと散らばるバッグの中身。


「きゃあ? え? どうして?」


 狼狽えるファティマが足元に散らばった物を慌てて集めようとする。唖然と事を凝視し続けるテオドールの視界で、ファティマにぶつかった子供は散らばった物の中から端に転げたコンパクトを然りげなく足で蹴り、すかさず拾い上げ、逃げ出したのだ。

 脱兎の如き速さで。

 

 あいつ……っ!!


 通常なら止められなかっただろう。それどころが、気づきもしなかったかもしれない。

 だが最初から一部始終を見ていたテオドールは即座に手を伸ばしてその子供の襟首を掴み、持ち上げた。


「離せぇぇっ!」


「なんてことをするんだっ! 来いっ!」


 ぎゃあぎゃあ喚く子供からコンパクトを取り上げてファティマに返し、事のしだいを憲兵に説明しなくてはならないからと、テオドールは妹を護衛騎士と学友らに任せて子供を引きずった。


「わたくしも行きますわ」


 おずおずと申し出るファティマに首を振り、テオドールは柔らかな笑みを浮かべる。


「この芝居を楽しみにしていただろう? 護衛騎士も居るし、僕も間に合うようなら駆けつけるから」


 そうしてファティマ達と別れたテオドールは、子供の襟首を掴んだまま、騎士団の詰め所へと向かったのだ。




「名前は?」


「…………………」


「いくつかな? お父さんか、お母さんは? 一緒じゃないのかな?」


「……お母ちゃん、いない。お父ちゃんは…… たぶん、女のところ」


「………っ」


 騎士の質問に仏頂面で答える子供。テオドールは酷い目眩と共に言葉を失う。

 こんな悲惨な見てくれに見合う境遇のようだ。孤児院の方がまだマシだろう。親の愛情もなく、金子もなく、野ざらしで生きているのが見て取れる幼い子供。

 見事に捻じくれているようで、あの鮮やかな手並みを見れば、今回が初犯とは思えない。常時、悪事に手を染めているはずだ。

 幼児の手に仕込まれた鋭い剃刀。革紐で指に取り付けたソレを使い、裕福そうな人間を見つけては、布製の鞄やコートのポケットを狙ったのだと宣う幼児様。

 あっけらかんと言い放つ姿から、騎士達も幼児の常習性を感じたらしい。あからさまに狼狽え、困惑げな眼を子供に向ける。

 ぶっちゃけ、フロンティアは豊かな国だ。物乞いもおらず、貧困層にも救済措置が取られ、教会の炊き出しで生きていける。

 爪に火を灯すような暮らしでも、食べることには困らないよう配慮されていた。

 人間、食べて眠れればなんとかなる。ある人物の受け売りだが、テオドール自身もそう思う。


 なのに…… なぜ?


 こんな小さな子供が犯罪に手を染めるほど困窮しているのだ?


 やもたまらず胸に込み上げる苦い気持ち。喉元まで迫り上がったソレを無理やり飲み込み、テオドールが口を開こうとした瞬間。

 誰かが騎士団詰め所の扉を勢い良く開けた。

 そこには一人の男性。軽くウェーブした黒髪を振り乱し、焦げ茶な眼キョロキョロさせている。

 慌てて駆けつけたのか、その姿は息急ききって顎を上げていた。そしてぎょろりと詰め所内を見回し、椅子に座らされた子供を見て、かっと眼を見開く。


「なにしとんじゃ、お前はーっ!!」


「ってぇぇーっ!」


 開幕、子供の頭に拳骨を落とす男性。突然の事態に言葉もないテオドールと騎士達。

 だが殴られた子供は平気の平左。獰猛に見下ろす男性に怯むこともなく、言い返した。


「お父ちゃんが仕事もせんと女に入れあげとうけ、俺が稼ごう思うたんじゃっ!」


 父ちゃん? この子の親かっ?!


「ほたえなっ!! そんで騎士の世話んなっとったら埒かんわ、ぼけっ!!」


「んなーっ! じゃあ飯寄越せや、クソ親父っ!」


「なんじゃとうぅぅっ! 飯代ならテーブルに置いてぇけっ!」


「足らんわっ! 銅貨三枚で何が食えっかっ!」


 ぎゃんぎゃんやらかす似た者親子。


 ……親子。だよね?


 テオドールは唖然とする。どうやら親子喧嘩をしているように見えるが、彼の知る親子喧嘩と桁が違い、今にも噛みつきそうな二人の剣幕にドン引きである。

 だがまあ、騎士団は慣れたもの。普段、酔っぱらいや不埒な男性らを相手にしている彼等は、どうどうと父親を宥めた。


「お父さんですか? お子さんがスリを働いたようで…… 子供ゆえ罪には問いませんが、犯行が度重なる場合、お父さんに罰金がかせられます。監視を怠らないでくださいね?」


 いやいや、この父親が犯行の原因じゃないの? 飯寄越せとか言ってたし、満足に食べさせてもらえてないんじゃ?


 思わず眼を丸くして見守るテオドール。


 始終穏やかな口調で騎士らは父親を労い、色々注意してから、気をつけてと詰め所から送り出した。そんな彼等は、背後から射るように見つめるテオドールに気づいて苦笑する。


「こういうことは繊細なのです。あの子が言っていたでしょう? 母親はいないと。別れたのか死別か。どちらにしろ、あの父親は一人で幼子を育てているわけです。孤児院に入れることも、どこかに捨てることも出来たでしょうに。つまり、彼は彼なりに努力している。そこは認めてあげなくては。おざなりであろうとも、子供が父ちゃんと呼ぶ間はね」


 否定はいつでも出来る。今を生き、足らずとも努力する者を騎士団は認めるのだ。認められことで、相手も気持ちに余裕が生まれ、己を顧みられたりもするらしい。

 

「へぇ……」


 自分の知らぬ大人達の駆け引き。ここで騎士らが叱責したり詰ろうものなら、その反動が子供に向く。

 お前のせいだと、子供が被害に遭う。それだけは避けなくてはならない。


「難しいのですよ。あの子自身が保護を求めるなら全力で守ります。孤児院の協力を得て、父親を抑えられます。でも、御覧になったでしょう? あの子は父親に怯えてはいなかった。言いたいことを言い合っていた。親子関係は悪くないと判断します」


 あれでっ?


 御互いに眉を吊り上げて眼を剥き、今にも殴り合いしそうだった二人を脳裏に描いて、テオドールは信じられないような顔で騎士達を見つめた。

 その素っ頓狂な顔に思わず噴き出し、爆笑する騎士団詰め所。

 賢いとはいえ、テオドールはまだ弱冠十五歳。年明けに成人する彼には、人生の喜怒哀楽や酸いや甘いが理解しきれないのだろう。


「髪を振り乱し、息を切らせて駆けつけた姿を見れば、自ずと答えが出るものです」


 どこかで子供が騎士団詰所に連れていかれたのだと聞いたに違いない。あんなんでも我が子を心配し、一目散に駆けつけてきたのだ。

 愛情の有無が見え隠れしているではないか。

 一見険悪に見える中にも情があり、気のおけない者同士なら殴る蹴るや罵詈雑言の応酬もやらかすものだ。

 しかし、絶賛疑問符だらけなテオドールを微笑ましく見つめる騎士らも知らない。


 その親子が帰りの道すがら、満面の笑みで歩いて戦利品の山分けを相談していたことを。


「どうだった?」


「楽勝。あの兄ちゃん、目立つコンパクトにしか気づかなかったよ」


 にやにや笑いながら、子供はポケットから指輪を取り出す。これは手の中に握り込み、テオドールに見えないよう隠していた。

 あの時この幼児は、コンパクトを拾う自分の手をテオドールが凝視していると鋭く察し、空いた方の手で傍にあった指輪も掠め取っていたのだ。

 小振りで細い指輪だが、物は良さそうである。


「よくやった! 今夜は何でも好きな物食わせてやるぞっ、何が食べたい?」


「ステーキっ! うんと分厚い奴!」


「おうよ、二枚でも三枚でもいったれっ」


 わあいっと喜ぶ子供を抱き抱え、男性は故買屋に指輪を売り払うと酒場へ向かった。子供と己の欲求を満たすためだ。

 騎士団の推測どおり、実は彼等は仲の良い親子だったのである。


 だが、これで話が終わるわけはない。




「………君さあ。はあ……なんで、こうなるの?」


 じっとり眼を据わらせるテオドールの前には体育座りの幼児様。


「飯くれ」


 物怖じもせず宣う子供に、彼は頭痛を禁じ得ない。あれから数日。テオドールは再び例の幼児を前にして途方に暮れていた。


 なんと此奴、またもやテオの視界の端でやらかしてくれたのだ。

 うおっ?! と驚いたような声が聞こえ、振り返ったテオドールが見たものは地面に散らばる小銭や小物。

 慌てる男性がポケットに手を入れ、底にあいた穴から不思議そうに手を出していた。


「いつの間に穴が?」


 落とした物よりあいた穴が気になるらしい。そしてその男性の足元でちょろ助する小さな子供にテオは眼を見張る。

 

「ほら、おっちゃん。落としたぜ?」


 にっと笑う幼児は、拾った小物や小銭を男性に差し出す。ありがとうと言って受け取る男性。

 だがテオは見た。足元の物を拾ってやっている振りをして、その幼児様が落ちた銀貨だけをポケットにくすねていたのを。

 さりげなく指の間に挟んでクルっと回し、掌に握り込む鮮やかさ。ぼくとつなフロンティアの人々では気づけまい。

 わなわなと手を震わせ、そこで暴露するわけにもゆかず、テオドールは無言で幼児の首を引っ掴むと、この路地裏まで引きずってきたのだ。


 完全な再犯。今度騎士団の詰め所に連れていけば、間違いなく父親に罰金がかせられる。


 ……そうしたら、この子は? どうなるだろう。殴られる? ……どうしよう?


 先日騎士らから、こういった問題に関する色々を聞いたばかりなテオドールは、しばし悶々とする。


 飯…… 御飯か。


「お腹が空いてるなら、教会に行きなさい。朝夕と炊き出しをしているから。温かな御飯が食べられるよ?」


「昼は?」


 きょんっと見上げる小憎らしい瞳。


 今でこそフロンティアは平民でも一日三食食べられるが、以前はそうでなかった。テオドールは話にしか知らないが、その昔、五十年も前は日に二食が普通だったそうだ。

 教会の炊き出しはその前から行われていた施しで、今も変わらない。

 

「……昼は父親に食べさせてもらいなさい。銅貨三枚貰えるんだろう?」


 三食には足りないかもだが、一食なら何とかなる金額だ。これで一件落着と彼が思ったのも束の間、テオドールの耳に信じられない言葉が聞こえる。


「銅貨三枚で肉は食べられないじゃん。教会の炊き出しも野菜ばっかだし」


 仏頂面で吐き捨てる幼児様。


 テオは、思わずあいた口が塞がらない。


 君、知ってたんだねっ? 教会で炊き出しやってるの知っていて、その内容が気に食わないから肉を食べるために犯罪で金子を得ようとっ?!


「それに一日銅貨三枚じゃないよ。一食銅貨三枚。肉串買ったら終わるじゃん? それじゃ足りないからさあ」


 肉串じゃなく、温物か軽食を買えよっ! 銅貨三枚あれば、具沢山なスープや挟み物のパンも買えるだろうがっ!!


 どうやらあの父親は、ちゃんと食べられるだけの金子を子供に与えていたようだ。

 なのにこの子供は、肉を食べたいがために犯行を重ねていたらしい。豊かなフロンティアでも肉は割高である。

 

 あまりの言いぐさに二の句が継げず、微動だにしないテオドール。その前で幼児はぴょこてんっと立ち上がり、ぱんぱんお尻をはたいて砂を落とす。


「まあ、めっかったし、しゃーない。今度は見つからないようにやるよ」


 にっと眼を細める屈託ない子供。


 その無邪気な犯罪予告に怒髪天をつき、テオドールの中で何かが切れた。


「見つからないようにじゃなあぁぁーいっ!!」


 初日同様、子供の襟首を掴み上げ、テオドールは無駄に豊富な魔力の圧力を使って怯えさせ、子供に父親の居所を吐き出させた。




「あー……? どういうこった?」


「すまん、父ちゃん。見つかってもうた」


「……………………」


 案内されたのは酒場。夕刻近い酒場は、それなりに賑わっている。

 そんな人垣を掻き分け、テオドールは幼児の父親をギンっと睨めつけた。


「あなたの子供が、またスリを働いておりましたよ? 騎士から注意を受けたはずです。どのように考えておられますか?」


「……………………はぁ」


 大仰な溜息をつき、子供の父親は情けなさ気な顔で我が子を見つめる。


「もっと上手くやれよなぁ? 父ちゃん、面倒は御免だぞ?」


「………面目ない」


 えぐえぐと大粒の涙を零して嗚咽をあげる幼児。

 だがその会話から、テオドールは父親が子供の犯罪を黙認していたことを覚り、頭が沸騰した。


「あなたは……っ! こんな小さな子供にスリをやらせて平気なんですかっ? 親でしょう?」


 テーブルに頬杖をついた父親が、憤る少年を冷たい眼差しで見上げる。そして忌々しげに酒の残りを呷ると、音を立てて椅子から立ち上がった。


「御高説どうも。俺ら底辺には通じないがね。こいつが何をして金を稼ごうが、俺は一切関知せん。罰金でしたっけ? 払いますよ、それで良いんでしょ?」


 テオドールの手から我が子を奪い取り、父親は蔑むような顔でテオを見下ろす。


「あんたには分からんだろうなあ。分かってもらおうとも思わん。俺は、こいつが飢えるくらいなら犯罪に手を染めてでも生きていて欲しいと思う。それで首に縄がかかったとしても、それがコイツの人生だ。そういう世界なんだよ、底辺ってのはな」


 テオは言われた意味が分からない。


 話としては理解出来るのだが、縛り首になっても構わないという、その刹那的な気持ちが理解出来なかった。

 人生、綺麗事では済まないものだ。誰だって人様に言えない行いや気持ちの一つや二つはある。ただ、世間との兼ね合いから行動に移さないだけで。

 この子供は言った。肉が食いたいからスリで稼ぐのだと。そんなもの我慢したら良いとテオドールは思う。教会の炊き出しは無料で食べられるのだ。贅沢はいえないだろうと。

 父親から貰った金子で買うでも良い。なぜに悪事を働いてまで己の欲を満たそうとするのか。テオには理解不能だった。

 子供だけじゃない。この父親もだ。騎士団の詰め所で、この子供は父親が仕事をしないで女に入れあげていると話していた。金子がないのに働かない神経も分からないし、女に入れあげる余裕がどこから来ているのかも分からない。


 唖然と立ち竦む少年の姿を見て何か察したのか、幼児の父親が不均等に口角を上げる。


「……俺は読み書きも計算も出来ねぇ。真っ当な仕事につけないんだよ。それでもまあ、日雇いや臨時の肉体労働をやってはいるがな。あとは女に媚びを売ったり?」


 にや〜っと卑な含みを持たせた笑み。それを目敏く見据え、テオドールの顔が嫌悪に歪んだ。


「春をひさぐのは何も女ばかりじゃないんだぜ? 兄ちゃんよぉ」


 相手をやり込めたとばかりにニタニタ卑らしい笑みを浮かべる父親だが、彼は予想もしないところからカウンターパンチを食らう。


「それやめろって言ってんじゃんっ! 今に俺が良い女になって、父ちゃん買ってやるからさあっ!」


 何気に聞き耳を立てていた周囲の客らが一斉に噴き出した。そして酒でびしょ濡れなまま、声の主を凝視している。

 それに倣い、テオドールも凍った眼差しで父親の腕に抱かれた幼児を凝視した。


「……お前こそ止めろって。意味も分かってねぇくせに」


 はあっと苦虫を噛み潰した顔の父親の頬を両手で挟み込み、真剣な眼差しで見つめる幼児様。


「本気だぞっ! あんな女よりも、俺の方が良い女になるって! 今のうちに唾つけとけよ、父ちゃん!」


 うあ〜っと、父親含めて歯茎を浮かせる周囲の大人達。要は『お父さんのお嫁さんになりたい』と言いたいのだろうが、世の父親が夢見る台詞が、言い回し一つでこれほど常軌をを逸してしまうとは。

 例にもれずテオドールもうんざりと天を仰ぐ。だがそれは幼児の発言に対してではない。


「その子、女の子なんですかーっ! なのに、そんなみすぼらしい格好させて…… しかも、やましい仕事まで………っ! あんた、それでも父親かぁぁーっ!!」


 こんなませた子供らしからぬ言動を幼児に刷り込む劣悪な生活環境。それに対する激しい怒りだった。


 テオは至極真っ当な雄叫びを上げる。


 ここから彼は、自ら底辺を名乗って胸を張る親子にまとわりついた。

 幼女にちゃんとした暮しをさせようと、父親の更正を心に誓ったテオドールである。


 .....しかし、これを世間一般では大きな御世話ともいう。


 これから盛大な空回りが予感される彼の道行きに合掌♪

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