第19話 閑話 ハビルーシュ妃と蜜蜂
「母上、チィヒーロとは?」
ファティマの部屋で御茶をしながら、テオドールが問いかけた。
テーブルには香ばしい香りの紅茶に、小人さん印の御菓子。
添えられた蜂蜜も、今では、高価だけど手が届かないほどの値段ではない。
これもメルダとジョルジェ伯爵が懇意にしているからだ。
ほんの十年ほど前までは、甘い御菓子など存在せず、甘味である蜂蜜も、滅多に食せる物ではなかった。
料理も単調な味付けしかなく、塩胡椒かレモンやビネガーをかけるのみ。
それが、今では多くのソースやスパイスが広まり、食卓を彩っている。
キルファンから伝わった発酵食品なる調味料など、まるで魔法の調味料だ。
一たらしするだけで、劇的に味が変わる。
そんなこんなにまつわる名前。それがチィヒーロだった。
「あの黒髪の子は、王宮までファティマを連れてきてくれたのよ。銀の褥で泣いていたファティマをね」
「銀の褥?」
「大きな網よ。とっても広くて綺麗に煌めいていたわ。わたくし、そこでファティマと暮らしていたのよ」
「はあ....」
うふふ、と楽しそうな母親に乾いた笑みを向け、テオドールはファティマを見た。
ファティマは、訳が分からないとばかりに、小さく首を振る。
だよね。
それにしても、おかしい。
母上はチィヒーロを知っているはずだ。幼児退行する前のファティマだと。
今でこそファティマと名乗っているが、以前は小人さんと呼ばれるジョルジェ家の娘だった。
テオドールも詳しくは知らない。
赤ん坊の頃から一緒にいたファティマが自分の双子の妹で、一時ジョルジェ家に保護されていたのだとしか聞いていない。
その頃、彼女はチィヒーロと呼ばれて、王宮中を走り回っていた。
今のファティマに当時の記憶はなく、言葉も片言で覚束ない彼女を、父上や母上らとともに大切に守ってきた。
たまにやってくる蜜蜂が、ポチ子さんと呼ばれ、チィヒーロが可愛がっていたことを知るテオドールは、ひょっとしたら、また昔の記憶が戻るのではないかと期待したが、そのような奇跡が起きる事はなかった。
それでもファティマが、テオドールにとって大切な妹には違いない。
彼は、手取り足取り根気よくファティマと向かい合い、彼女の成長を手助けし見守ってきた。
その甲斐あってか、ファティマはみるみる物事を覚え、洗礼を受けるころには年相応となり、見事に王女として花開く。
まあそのせいで、他の王女らと確執が出来てしまったのだが、それも致し方なし。
御茶をすすりながら、テオドールは蜜蜂と戯れるファティマを眩しそうに見つめた。
「ヒーロ様は、沢山の蜜蜂を連れておられましたわ。素敵ね」
「そういえば..... その蜜蜂は、ポチ子さんなのかい?」
テオドールが何気に口にした言葉に、答えたのはヴィフェルだった。
「いえ。あの蜜蜂は寄ってくるだけで、ファティマ様に触らせる事はありませんでしたから。今回の蜜蜂はファティマ様と、とても仲がよろしゅうございます」
そう言うと、ヴィフェルは微かに口角を上げる。
テオドールの視界の中には、ファティマに抱かれて御満悦な蜜蜂。
どや顔でファティマに撫でられ、嬉しそうだ。
確かに。前のとは違う気がする。
「ヒーロとは、ジョルジェ伯爵令嬢の名前?」
「ええ。チィヒーロという.... いえ、発音の難しい名前でしたわ。なので、呼びやすいようにと仰ったので」
チィヒーロ..... ドラゴの娘。
姿形は違えど、名前も、魔物を引き連れているあたりも、以前の小人さんにそっくりだ。
物憂げに御菓子へ手を伸ばしながら、テオドールの耳はヴィフェルの呟きを拾う。
「そういえば、王弟殿下と懇意なようです。敬称なしで名前を呼んでおられました。さらには内政の相談なども受けている様子」
御菓子に伸ばしたテオドールの指が、ピタリと止まった。
当時のテオドールには分からなかったが、伝え聞いた噂によれば、小人さんは十年近く前の変換期、失われたキルファンをフロンティア北の荒野に再建し、金色の魔力が消える大地を憂いて農業や畜産など多くの改革に力を貸したと言う。
その逸話の端々をテオドールは小耳にし、さらには未だに感謝や敬意を向ける貴族らが、ファティマの元へ訪れていた。
九人もいる王女の中でも、一際羨望を集める王女。それがファティマだ。
記憶のない本人は、内心複雑なようだが、おかげで、ファティマの輿入れ先は既に決まっている。
フラウワーズ王太子殿下、マルチェロ・ド・フラウワーズ。
次男坊でありながら長男を差し置いて王太子となった傑物。
卓越した政治センスと、武勇を馳せ、過去のカストラート国境での戦いに、逸速く援軍を率いてフロンティアに加勢してくれたのだとか。
少し歳が離れているが、問題にするほどでもない。
ファティマが学院を卒業すると同時に婚姻する予定になっている。
彼は心からファティマに敬意を抱いており、魔法を学ぶためにフロンティアへ留学していた間に父上やファティマ本人へ熱烈なアプローチをかけ、婚約に持ち込んだ。
当時、王太子は十五歳、ファティマは七歳。ファティマが学院を卒業する十六歳まで独身で待つという王太子の言葉に圧され、婚約は成立する。
本人の記憶にない功績で他の王女よりも一段高い位置に置かれるファティマ。
隣国の王妃となる事も決まっているため、他の王女方から妬みや嫉みで煙たがられ、貴族らも隣国へと嫁ぐ予定の王女を腫れ物のように扱う。
結果、ファティマは王宮でも学院でも孤立していた。
学院卒業まで、あと三年。この蜜蜂が慰めになってくれると良いが。
そう考えつつ、テオドールはジョルジェ伯爵令嬢を脳裏に浮かべた。
叔父上と懇意で国政に関わる幼女。
まるで、記憶を失う前のファティマのようではないか。
新たな金色の王でもあるまいに。
チィヒーロという幼女の艶やかな黒髪を脳裏に描き、テオドールは思考を振り払う。
すると、それを察したかのように、ハビルーシュ妃が、頬に手を当てて呟いた。
「でも瞳の色が違ったのよ? わたくしの知るチィヒーロは、黒髪に金色の瞳をしていたの。瞳の色って変わるのかしら?」
金色の瞳?
そういえば、ファティマも金色の瞳から琥珀色の瞳へと変化した。
いや、元々琥珀色だったのだが、いつの間にか金色の瞳になっていて、記憶を失うと同時に瞳の色が変わったのだ。
あれ? と、言う事は?
テオドールの顔が驚愕に強張り、恐る恐るファティマの蜜蜂に視線を振る。
何かを察したのか、蜜蜂はファティマの小脇に頭を突っ込み、寝たフリを始めた。
あからさまだね、君。
じっとりと眼を据わらせて睨めつけるテオドールを余所に、ファティマは眠る蜜蜂を見て大興奮している。
可愛ぃぃぃーっ! と無邪気にはしゃぐ妹。
母親ときゃっきゃうふふしているファティマを、微笑ましそうに見つめるヴィフェル。
そんな長閑な部屋の中で、テオドールのみが何かを含む眼差しで煩悶していた。
「惚けよう」
「え?」
「ハビルーシュ妃は夢の国に棲む御仁だ。その空想話に付き合ってあげているだけの振りをして、うやむやにしよう」
ロメールぅ、投げるなよぅぅぅ。
大きな瞳を揺らして、への字口の小人さん。如何にも物申すな、その姿に、ロメールの眼が盛大にバタフライを始める。
「いやさ、そのね、あ~..... ごめんっ、しばらくは、それどころじゃないんだっ、正直、ハビルーシュ妃の事なら左右に受け流せるからっ、慣れてるからっ、大丈夫っ、任せてっ!」
ぶっちゃけんなよぅ。大人だろう?
大きな溜め息をつき、渋々頷く小人さん。
「で、何があったん?」
「精霊の報告で、兄上が君に興味を持った。ってか、たぶんバレた」
「うえぇぇぇぇっ??」
聞けば、ドルフェンの実家にある金色の王の記録本は、元々王家の本の写本であり、代々の国王に受け継がれているものなのだとか。
ゆえにロメールは知らなかったのだ。
「玉虫色の精霊は金色の王限定の精霊らしいんだ。.....話すしかないね」
「あ~.......」
そういや、前々世のお母ちゃんが言ってたっけなぁ。
『良いことは一人訪ねてくるが、悪いことは仲間と肩を組んでやってくる』
その通りだわ。
一難去って、一難凌いで、さらにまた一難。これぞ、小人さんクオリティー。
知らず揉め事の渦中に投げ込まれる小人さんだが、もはやそれにも再び慣れてきた今日この頃。
こういう星の許に生まれたのさ~と嘯きながら、肩を落とす小人さんをポチ子さんが慰めていた。
紆余曲折しながら、今日も小人さんは我が道を模索する♪
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます