第25話 第3幕第2場 In thy woman's weeds. 2
槍振学園生徒会執行室。入学初日の日も暮れた時間――
「あら、峰子。用事は終わったの? そう今、寮を出たところね。しかしあなたも悪い姉ね。弟をけしかけるなんて」
何人か居残りの生徒の姿のある生徒会執行室で、シース・ハモーンが書類に判を押していた。
シースは忙しく捺印の為に手を動かしながら、その可憐で小さな顎にスマホを軽く挟んでいる。
「だって。あの
スマホの向こうから聞こえてきたのは、峰子の流暢な英語の一節だった。
「『怪我をしたことのない奴に限って他人の傷を馬鹿にする』ね。『ロミオとジューリエット』第2幕第2場ロミオのセリフね。ええ、心の傷は、本人にしか分からないものね」
「それにしても峰子、がっかりだったもの。戦う為に、この学園に来たくせに。戦おうって気概の子、あんまりいなかったし。ねぇ、シースちゃん?」
「式典でのことか? ああ、タナトス――死に向かい合ってなお、〝生きたい〟と立ち向かっていくのは少数だったな」
「庵は出遅れたけど。雪辱の為に、勝負を挑んだあの気概なら大丈夫。お姉ちゃんとしては、一安心」
「そうだな」
「まあ、妹ちゃんのことは誤算だった?」
「……あれが、こんなにも早く……力を使う相手を見つけるとは……」
シースの判を押す手が一瞬だけ止まった。
「予想できなかった?」
「ああ……」
「ふふん……Who ever lov'd that lov'd not at first sight? だものね」
「『一目で恋に落ちずして、誰か恋か知ると言う』ね。『お気に召すまま』第3幕第5場のセリフね。何故今、そのセリフなのかしら、峰子?」
シースの手の動きが再開する。
その動きはどこか先より力が入っていた。
「あら? 認めたくないの、シースちゃん?」
「それはシェクスピアが作中で引用した詩人マーローの言葉よ。厳密にはシェイクスピアのセリフじゃないわ」
「いいじゃない? 素敵な言葉よ。十分に、異能に価するスペルだわ」
「ふん。Beauty provoketh thieves sooner than gold...だ」
「『美貌は黄金よりも盗人を引寄せるものよ』ね。あら、珍しい。意固地になってるわね。同じ『お気に召すまま』の第1幕第3場ロザリンドのセリフで返すなんて」
「……」
「後は、あの本を手に入れるだけね、妹ちゃんとしては」
「ありえん。これは、絶対にあの娘には渡さない……サーヤのリビドーに、この書を触れさせる訳には……」
シースの視線がちらりと、机の脇に移された。
書類の山の上に、黒いシミに不気味に染められた古い一冊の本が置かれている。
「でも、いろんな人のリビドーに触れれば、妹ちゃんも変わるかもよ」
「……」
「庵はもちろん。あの後輩くんも、結構なリビドーじゃない?」
「ふん。期待薄だ。あの娘を排除した方が早い」
「ふふん……でもでも、あの騎士様。まさか、まさかの……伝説のElected Kngihtだったら?」
「あれが、Elected Kngiht――選ばれし騎士だと? それこそ、ありえん」
シースの眉根がピクンと跳ねた。
「ありえないかしら?」
「当たり前だ。Elected Kngihtなど……」
「じゃあ、エレクティッド・ナイトね」
峰子がらしくない崩れた英語を口にする。
「嬉々として。LとRの発音をごっちゃにして、峰子」
「あら、私達日本人には難しいのよ。LとRの発音。Rに間違えると、どんな意味にとれたかしら?」
「ふん……中学生にして、シェクスピア劇の鬼才と言われた女優鯉口峰子が、この程度の発音が出来ない訳ないでしょ」
「あぁ……分からないわ! Rだとどんな意味になるかしら?」
峰子が無駄に情熱的にスマホの向こうから問いかけてくる。
「ふん……Ah, mocker! That's the dog's name. R is for the...」
「『Rという字は人を小馬鹿にした字でございますねぇ。犬にちょうどいい字でごさいますわねぇ。えっと、Rにふさわしいのはっと……』『ロミオとジューリエット』第2幕第4場乳母のセリフね。あはは。やっぱりあの男子には、RのEre――」
「ふん! 言わせないわよ、私たちには不要だわ」
「ふふん。あら、そう?」
「ふん……今は勝負の話だったわね。明後日か。場所は……第3屋外鍛錬場を使いたい? ええ、そうね――」
シースは生徒会長の席に深く腰掛け直した。
目の前の書類の山に次々とハンコを押しながら、シースは余裕を取り戻したかのように微笑む。
その書類の一つに『極秘』と判が押されたものがあり、シースはちらりとそれを一瞥した。
シースがそれを手元に引き寄ると、そこには『危険度A』の文字とともに『第3屋外鍛錬場』の施設名があった。
「その日なら、確かに第3屋外鍛錬場がいいわ。峰子、本当あなたも悪い娘ね……」
シースの目がすっと細めらた。
その瞳はそのまま周りの席に向けられる。
何人かの生徒会役員が席でそれぞれの仕事に励む中、『生徒会長秘書』の席と他幾つかの席は空席だった。
「分かってるわね……私達の計画の為には、何だって利用してちょうだい……」
シースは電話をしながらも最後まで判を捺す手を止めなかった。
参考文献(ウィリアム・シェイクスピア訳文参考書籍)
『ロミオとジューリエット』平井正穂訳(岩波文庫)
『お気に召すまま』福田恆存訳(新潮文庫)
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