第22話 第3幕第1場 Most loving mere folly. 3

「あっ!? あの時の秘書おんな!」


 久礼が声のした方に勢い良く振り返った。


「いやね、秘書女だなんて。峰子、そんな呼ばれ方はしたくないわ。仮にも先輩だし」


 談話室のドアに現れたのは鯉口峰子だった。

 峰子は一歩中に入ってきただけで、部屋中の視線を――男女問わずに一身に集めた。

 峰子は皆の視線を当然のごとくその身に受けながら、久礼の前まで悠々と歩いてくる。

 そして峰子の前にいた生徒は、自然とその道を彼女の為に空けた。

 女優という言葉に偽りはないと示すように、人による花道が自然とできあがる。


「先輩だからって、何だ!」


 久礼がぐっと拳を握りしめ自分の眼前に突き上げた。


「先輩だからって。年上だからって。生徒会の役員だからって……」

「ちょっと、久礼……」


 怒りに拳を震わせる久礼の横顔を、小太刀が困惑げに覗き込む。


「ぐっとくる美人さんだからって。年上のお姉様だからって。秘書とかそそる役職だからって。歩く度に、めっちゃ柔らかそうに揺れるからって……近くで見れば、いい匂いもするからって……何かふわふわと、温かい体温もほんのり漂ってくるからって――」


 久礼の拳は途中で態とらしいプルプルとした震え方に変わる。


「その拳は、我慢の為に握ったのか!? アンタは!」

「……サーヤにした仕打ち。許してねーからな」


 だが最後に久礼は打って変わって真剣な眼差しで峰子を見た。


「ヒサノリ……」


 自分に代わって怒りを露わにする久礼に、サーヤが驚いたように振り返る。


「あら、偉いわよ。峰子は色々と――〝色々と〟経験者だしね。ふふん……」


 峰子は久礼の前まで来ると、思わせぶりに胸の下で腕組をしてみせた。

 先にタナトスを招き入れた左手を、その腕組の中でこれ見よがしに揺らしてみせる。

 豊満な胸の下で見え隠れする左手。

 何人かの生徒がその様子に警戒感も露わに身構えた。


「そうよ、久礼……タナトスとの戦い……先輩の方が経験者なのよ……そんな呼び方、よくないわよ……」

「だからって、小太刀。何て呼べばいいんだよ? いくら会長の秘書だからって、さっきのはやりすぎだろ?」

「そうね……峰子、悪く言われるの仕方ないかも。でもあれは生徒会長が――シースちゃんが望んだことだもの」

「姉様が……」


 サーヤの顔が青ざめる。


「峰子はシースちゃんが望むことは、何だってしてあげる。それが峰子のお仕事――秘書のお仕事。峰子はシースちゃんの秘書だもの。気に入らないなら、秘書おんなでも、何でも呼んでくれて構わないわ。でもどうせなら、ラテンの情熱を込めてこう呼んで欲しいわね……」


 峰子がすっと目を細めて、流し目で久礼の瞳を見つめる。

 その目はどこか艶かしく、挑発的でえも言われぬ色気があった。


「……何だよ?」


 久礼が峰子の雰囲気に気圧されながら、それを押し殺すように訊いた。


秘書女ヒショージョよ!」


「ヒショージョ!?」


 高圧電流が流れたようなショックが、久礼の背中を駆け抜けた。


「そう! ヒショージョ! 私はヒショージョなのよ!」


 峰子は先までの妖艶な雰囲気を一気に吹き飛ばし、無邪気なまでに自慢げに胸を張る。


「ヒショージョ!? 先輩! ヒショージョなんすか……」

「あら? 急に敬語に戻ったわね」

「そんな……人生の大先輩だったなんて……色々と経験者だったなんて……」


 久礼が膝から力なく崩れ落ち、両手を床に着いた。


「いやいや、久礼……アンタ何故そこで、がっくりと崩れ落ちんのよ?」

「小太刀……貴様には分からん……実はヒショージョだと、教えられた時のこのショックは……」


 久礼の首がショックを振り払おうとするかのように左右に振られた。


「いやいや、色々と分かんないわよ。そのショックさが意味不明よ。てか、何で男子どもは、皆ショック状態なのよ」


 小太刀が周りを振り返れば、部屋中の男子達が同じように膝から崩れ落ちていた。


「ふふん……most loving mere follyね」

「はい? 何ですか?」


 突然峰子が呟いた古風な英語に、小太刀が不思議そうに振り返る。


「『恋は大方 気の迷い』。ウィリアム・シェークスピア著『お気に召すまま』第2幕第7場。アミアンズの歌よ」


 小太刀の問いに答えたのはサーヤだった。


「さすが、サーヤちゃん。ちゃんと、知ってるんだ」

「それは、もちろん……」

「ふふ……でも、知ってるだけじゃあねぇ……」


 峰子は思わせぶりな視線と口調をサーヤに向ける。


「……」


 だがサーヤは軽く相手を睨み返すだけで何も口を開かなかった。


「何、人生の大先輩様を睨んでんだよ、サーヤ」

「別に……で、ご用は何ですか?」


 ようやく立ち上がった久礼の非難がましい言葉。その声にサーヤがプイッと顔をそらして訊いた。


「ああ、それなんだけど――」


「葉可久礼! 僕と尋常に勝負だ!」


 峰子が何か口にしかけると、スカートを荒々しくはためかせて、一人の生徒が血相を変えて談話室の入り口に現れた。


参考文献(ウィリアム・シェイクスピア訳文参考書籍)

『お気に召すまま』福田恆存訳(新潮文庫)

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