第13話 第1幕第4場 Nothing can come of nothing. 4

「――ッ!」


 久礼がたまらず背後に振り返る。


「なんだ……今のこいつの声か……まるで、肌を直接撫でられたような……息でも直に吹きかけられたような……」


 声の主はサーヤだった。

 久礼が鳥肌を立てながらサーヤの顔を覗き込む。

 サーヤはかすかにうつむいており、赤い髪に隠れてその表情が久礼からは伺えなかった。


「私は、そんな太刀じゃ……ダメよ……満足できないわ……」

「はい?」

「もっと立派な太刀で……立って頂戴……私の為に……」

「……な……お前……」


 久礼をして声を詰まらせるほど、背筋を凍らせる何かがその声にはあった。

 久礼は一瞬で乾いてしまった喉で声を絞り出して続ける。


「な、何だよ……俺の太刀に文句が……」

「そうよ……もっとすごいものを見たいわ……そんな太刀じゃダメ……もっと立派なもので、私を満足させてみせてよ……」


 ようやくおもてを上げたサーヤの顔には、恍惚の笑みが浮かんでいた。

 そのとろけた顔は、先の峰子を妖艶な笑みをも超えている。

 何かに耽溺し、熱を帯びたうっとりした視線をサーヤは送ってくる。

 漏れるように出てくる吐息も熱を帯び、春先だというのに白い湯気までその息には混じっていた。


「はい? お前、何を言って……」


 その表情に久礼がたまらず唾を飲み込む。

 そしてそこで息を飲むことすら忘れた。


「こいつ……まるで獲物に食らいつく前の……女豹かよ……」


 久礼の独り言の通り、サーヤは肉食の大型猫類もかくやの肉欲的な笑みを浮かべていた。

 サーヤは久礼の木刀を熱すら持ったような濡れた瞳で見つめる。

 うっすら浮かんだ汗が、艶やかな皮膚を妖艶なまでに光らせている。

 サーヤはそのまま久礼に近づき、ピタリと密着するようにその身を寄せた。


「な……」


 そのあまりの近さに、久礼が更に息を飲む。

 そして久礼の飲んだ息は、少々暖かくまた少し生臭かった。

 サーヤの吐いた息を、久礼はあまりの近さ故に飲み込んでしまう。

 サーヤがそのまま壇上の姉にゆっくりと振り返った。

 流し目に目を動かしてから相手に振り返るその様は、サーヤの今の妖しさをより引き立たせる。


「……私は……私の名は――サーヤ! サーヤ・ハモーン!」


 サーヤは自らの名を、その名をよく知っているはずの壇上の姉に向かって告げる。


「……」


 シースが無言でサーヤを見つめ返す。

 先までの鋭い視線はさらにその鋭利さを増していた。


「あら? 妹ちゃん……さっきは睨まれただけで気絶したのに……シースちゃんの視線に……しかも、あの表情……」

「……」


 峰子がシースに微笑むと、壇上の姉は無言で奥歯を噛み締めた。

 反発する妹の言葉と、その顔に浮かんだ熱を帯びた表情に掻き立てられ、姉に怒りと焦燥が入り混じった複雑な表情を作らせる。


「ハガ・ヒサノリ――だったわね……」


 サーヤがシースから視線を戻すと、手を久礼の胸の上に伸ばしてそっと添える。

 そしてサーヤはそのまま長くしなやかな中指を、何か品定めするかのようにすっと滑らせた。


「おう……何だよ? えっと……サーヤ……」

「ハガ・ヒサノリ! 私が、あなたのスペルマスターになります!」


 サーヤの指が久礼のみぞおちの上でピタリと止まる。


「なっ? スペ――何だって?」

 久礼がその仕草にゴクリと一つ息を飲む。


「スペルマスターよ! あなたのセイキ! 私が抜くわ!」


 サーヤが高らかに宣言すると、その身が内から妖しく光り出した。


「はい? スペル……マ……セイキ……抜くだって?」


 久礼が聞き間違いかと耳にした単語に首をかしげる。


「スペルマスターよ! セイキよ!」


 サーヤが徐々にその内からの光を増しながら答える。


「スペ……ルマ……スターに、セイキ……だと?」


「そうよ! ウィリアム・シェイクスピア著『ロミオとジューリエット』第5幕第3場! ジューリエットのセリフ!」


「――ッ サーヤッ!」


 サーヤの宣言するような力強い言葉に、壇上のシースが一瞬で憎悪に顔を歪めた。

 質量すら感じられそうな殺気が、その眼光からサーヤに放たれる。


「O happy dagger!」


「光が!?」


 辺り一面が閃光に覆われ、久礼が眩しげに目を細めた。

 サーヤの内から生まれた光が、今やこの女子生徒の全身を輝かせていた。

 特に光が集まっていたのは突き出した右腕。

 その右腕が久礼の鳩尾辺りに向けて伸ばされる。

 下腹部だ――


「やっぱり俺のセイキを抜くのか!? 抜いて頂けるのか!?」

「ちょっと、ヒサノリ! 何で、いきなり敬語よ!」


 戻ってきた小太刀が、危険を感じたのか久礼の制服の裾を掴んで下がらせようとした。


「だって、抜いて頂けるんだぞ、小太刀! 俺のセイキ!」

「なっ!!? こ、こんな時に! 公衆の面前で! この娘、何を言い出すのよ!?」

「俺、こんなところで、男になれるのか!? うっひょうッ!」

「ちょっと、久礼! アンタもこの状況で、何言って!?」


 タナトスの攻撃で混乱が広がる中、サーヤは誰憚ることなく久礼の下腹部に手を伸ばした。

 そして――


「This is thy sheath!」


 スペルの詠唱とともに、閃光が辺り一面を一瞬で染め上げた。


「……『ロミオとジューリエット』第5幕第3場……ジューリエット〝最期〟のセリフ……それが貴女の異能発動のスペル……」


 壇上では赤毛の姉が静かに呟いていた。

 先まであった激情の表情はかなぐり捨てられ、情熱的なそれに何故か変わっている。


「ああ……死をもって恋人の後を追うジュリエット……愛しい人と、ともに逝ける喜び……なんと純粋で、なんと残酷な幸せ……」


 まるで発情したかのように目を潤ませ、シースは妹の一挙手一投足に熱の籠った視線を向けた。


「サーヤ……貴女のリビドーはやはり――」


 そして戦場となった体育館のど真ん中では――


「うっひぃぃぃひゃあぁぁうううぅぅぅ……」


 その妹が、奇声を上げる〝女子〟の体に、突き出した右手を手首まで埋めていた。

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