第1幕第2場 Yours in the ranks of death!

第6話 第1幕第2場 Yours in the ranks of death!

 十年前――イングランドのある街で、その惨劇は起こった。


「ママ……」


 年端もいかない少女が、目の前の光景が理解できずに立ち尽くしていた。

 少女の目の前で、一人の女性の背骨がありえない方向に曲がっている。

 それは錆びた鉄でできた巨大な異形のオオワシの羽に、全身を捉えられた結果だった。

 片方の翼だけで手を広げた人間の大きさ程ある錆びた鉄の化け物。体は錆びた鉄クズでできており、なぜか頭部だけが人間の頭蓋骨でできていた。

 その化け物に若い母親らしき女性が全身を掴まえられている。

 足下には、血だまりに沈んだ同じ年頃の男性の姿があった。

 それらを見ていたのは、5歳にもならないような小さい赤毛の少女。そのまだ人形のような可愛らしい手でも、伸ばせば届きそうなところで、母親の体は背中に向かって曲がっていく。

 どこにでもあるような地方都市の駅前で、異形のものが若い母親と父親を血に染めていた。

 周りの大人たちはどうすることもできない。

 人々はただ悲鳴を上げながら、周りを取り巻くだけだった。


「逃げなさい……」


 若い母親が最後の力を振り絞って出した声で、せめて娘は逃がそうとする。


「いや! ママ!」


 幼児おさなごでもようやく異常な事態であることは理解できた。

 だが母の願いとは裏腹に、娘は幼さえ故にそのもとへと駆け出そうとする。


「ダメよ!」


 別の少女がその幼児を背中から抱きつき引き止めた。

 歳一つ分だけ背の高い別の赤髪の少女が、幼児を強引に背後から掴まえ、母親と引き剥がそうとする。

 二人の少女は真っ赤な赤毛に、赤い瞳が特徴的だった。

 二人とも母親譲りらしい。


「……」


 そんな二人を満足げに見つめた母の瞳も、燃えるように赤かった。

 だがその瞳の色が今まさに消えかかっていた。


「ダメよ! ママは、もう……逃げなきゃ!」

「何……ママはどうしたの……お姉ちゃん……」

「ママはもう……パパも……」


 姉は妹を必死で抑えながら、異形のものに囚われた女性とのその足下でピクリとも動かない男性を見る。


「イヤッ! ママといる! パパも! 離して! ママが! ママが――」

「言うこと、聞きなさい!」


 姉の小さな手では、妹を後ろから引くことができない。

 姉は妹の正面に回り込むと、全身で相手を後ろに下がらせようとした。


「……」


 姉の背中の向こうで母が力なく呟く。

 それは少々古風な英文だった。


「ママ……そのスペルは……」


 姉がその言葉に背後を振り返る。

 若い母親の前で、血まみれの父親が立ち上がっていた。

 二人とも最後の力を振り絞っているらしい。

 血に染まった震える手を、互いに伸ばそうとしていた。


「ママ……パパ……」

「見ちゃダメ!」


 姉がこれから起こることを察し、妹の目を覆い隠そうと後頭部ごとその顔を両手で抱きしめた。

 その瞬間、閃光が辺り一面を覆った。


「――ッ!」


 光が皆の目を灼き、人々から一瞬で視界を奪った。

 周囲の人間はその光にたまらず目を手で覆う。

 幼い姉も妹の肩にその目を埋めた。

 だがただ一人、妹だけは姉に抱きしめらていたが故に、その目を手でかばうことができなかった。

 むしろその身を固められ、妹は唯一自由になるまぶたを見開いてその光景を目に焼き付ける。

 まばゆい閃光が収まると、そこにもう異形のものの姿はなかった。


「ママ……」


 幼い姉が妹を抱きしめたまま背後を振り返る。

 だがそこで言葉を失った。

 そこに残されていたのは、互いに抱き合いながら横たわる若い夫婦の姿と、その傍らに放り出された一冊の古びた本だけだった。

 周囲の人間も一言も発せられない。

 若い夫婦からはかすかな身じろぎの音すら聞こえない。

 沈黙が全てを支配する。


「……O Happy dagger...」


 誰もが沈黙する中、不意に妹がポツリと呟いた。


「――ッ!」


 姉が妹から驚き身を離し、その両肩を力の限り掴んだ。


「This is thy sheath...」


 妹は惚けたように続ける。


「忘れなさい! そのスペルは!」

「There rust, and...」

「ダメよ!」

「let me――」

「くっ……Yours in the ranks of death!」

「――ッ!? お姉ちゃん……何?」

「『死すとも、この身はあなたの物』『リア王』第4幕第2場エドマンドのセリフよ……」


 妹の両肩を掴む姉の手は、震えながらも決して離すまいと力が込められていく。


「お姉ちゃん?」


「これからは、私が貴女を守るから……この命に代えても……だから……そのスペルは、忘れなさい!」


 小さな姉はようやく手を離すと、もっと小さな妹を今度は骨も折れんばかりに抱きしめた。

 それは幼いながらも、本心からの必死の言葉を伝える嘘偽りのない姿だった。


「……」


 だが妹は姉の言葉を耳元で聞きながら、その瞳は目の前の光景に吸い込まれたように動かさない。

 両親は抱き合って倒れたまま、全く動かない。


「……ママ、パパ――……」


 妹はそんな両親の姿を、熱を帯びた瞳でいつまでも見つめていた。


参考文献(ウィリアム・シェイクスピア訳文参考書籍)

『リア王』野島秀勝訳(岩波文庫)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る