第4話 第1幕第1場 O happy dagger! 4

「ん……んん……」


 校門を見下ろせる3階の廊下。

 二つの柔らかな唇がお互いを貪るように重ねられていた。

 互いの舌の根元まで絡められた唇は、熱い息を漏らしながらしばし求め合う。


「ふん……いきなり後ろから抱きついてきたかと思ったら……一体何のつもりかしら……」


 赤い唇の一方の主人がようやく離れた唇の主に、少々怒気をはらんだ流し目の視線を送る。

 二人は女子生徒だった。

 一人は窓を見下ろす位置に立ち、もう一人が背中からその首筋を抱きしめている。


「誰かさんが……怖い顔して、実の妹ちゃんを見下ろしてるからよ……」


 後ろから抱きしめていた女子生徒が、今度は相手の首筋に唇を這わせながら呟く。

 

「ふん……」


 明るい朝の日差しが差し込む窓際。窓を見下ろす位置にいた女子生徒の赤い瞳が冷たく眼下を見下ろす。

 2年生を表す青いリボンの上で、鋭い眼光が騒動となっている校門に向けられた。

 赤い瞳はその色に似合わず冷酷な光をたたえていた。

 晴れ晴れしい入学式の日の校門で、今まさに一人の女子生徒が男子生徒にビンタを食らわせている。

 その音がこの3階にまで響くほどの強烈な殴打だった。

 2年の女子生徒の視線は、その光景に一層嫌悪感の光を強める。

 赤い瞳の2年生は、その髪も燃えるように赤かった。

 眼下で騒動を起こしている女子生徒と全く同じ、赤い瞳に赤い髪だ。

 そしてその手に古びた洋書を持っていた。

 その古書の表紙は、黒いシミで染められていた。

 綴じ側の下から真ん中にかけて、何かをぶちまけたような不気味なシミだ。


「本当に、来ちゃったね。妹ちゃん」


 背中から赤髪の女子生徒を抱きしめ、その首筋に唇を這わせていた女子生徒がようやくその身を離す。

 こちらも2年生を表す青いリボンをしていた。


「ああ……そうだな。鯉口峰子こいぐちみねこ

「あら、やっぱり視線で人でも殺せそうな目をしてるわよ。まだ許してないの? 妹ちゃんの入学」


 峰子と呼ばれた女子生徒は、ガラスの向こうに写った赤い瞳に微笑みかける。

 峰子は少し話すだけで柔らかに揺れる豊かな胸をしていた。

 リボンのすぐ下のボタンは、その胸の大きさのせいで止めることを諦め外されている。

 その下のボタンも、かろうじて止まっており今にも弾けそうだった。


「あの娘にこの学園にくる資格などない」

「人類の憎き敵――命を食らうタナトスと戦う為に来たんでしょ?」

「人類の捕食者――命を食らうタナトスの餌食になりに来ただけだ……」

「あら辛辣。妹ちゃん、さぞ美味しそうに見えるんでしょうね。あの力の持ち主だもの」

「……このシース・ハモーンの名に賭けて……あの娘に、あの力は使わせない……」


 シースと名乗った赤毛の女子生徒はそう呟きながら、手にしていた古い洋書を握りしめた。


「でも妹ちゃんは、あなたの持つその本に賭けてるんでしょ?」

「ああ……このファースト・フォリオにな……」


 シースが慎重に表紙をめくり、標題の描かれたページを開く。

 英文でのタイトルと、作者らしき肖像画の書かれたそれは、紙質やインクのかすれ具合などからも近代的な印刷物でないのが一目で知れる。

 そしてページの隅から肖像画にかけても、不気味な黒いシミは染まっていた。


「そのファースト・フォリオに、妹ちゃんのリビドーが……」

「そうだ……あの娘のリビドーは……この本に……」


 シースは途中で言葉を飲み込みながら、窓を離れて一人歩き出す。


「……」


 峰子も静かに後を追って歩き出した。


「リビドー……私たちの力の源にして――」

「タナトスの大好物ね、シースちゃん」

「そう……しかもあの娘のリビドーは……」

「禁忌というべきもの……」

「……」

「ふふん……今のシースちゃんには、この言葉ね。I would you were as I would have you be!」


 峰子が歩きながらシースの背中に、情感たっぷりと少々古風な英文を投げかける。


「……」


 シースの脚が止まった。

 その足下がかすかに震えている。

 峰子がその背中に追いついた。


「『あたしが望んでいるようなあなたであってほしいわ』。ウィリアム・シェイクスピア著『十二夜』第3幕第1場オリヴィアのセリフね、峰子」

「ええ、そうよ……言って欲しかったでしょ? ふふ……」

「……」


 峰子が黙り込んだシースの背中を背後からもう一度静かに抱きしめた。

 その柔らかなバストが、優雅に垂れる赤毛越しに、相手の背中に押し当てられる。

 そのまま峰子の唇はシースの耳元に寄せられた。

 甘い息がシースの耳朶にかかるほど、熱く強く峰子はシースの体を背中から絡め取る。


「……」


 シースが身を固くしたままその抱擁を背中で受け入れる。


「峰子にだって、弟がいるもの……あなたの気持ちはよく分かるわ……」

「……」


 シースの体から自然と力が抜けた。

 全身の力を抜きその背中を相手に倒れ込ませる。

 シースは背中の峰子にその身の全てを傾けた。

 いや、その身だけでなく、文字どおり全てを預けたようにシースは峰子の中に身を預けた。

 二人は今まで何度もそうしてきたのだろう。

 ごく自然に溶け合うように抱擁を交わす。

 背中から回された峰子の手をシースは自らの手で包み込んだ。

 シースは峰子に身を任せながら、その首も相手に寄り添わせる。

 互いの唇が重なりそうになるほど、二人は互いを委ねる相手の瞳を覗き込む。


「峰子……私の罪に……付き合ってくれるか?」

「ええ……もちろんよ……シースちゃん……」


 二人の互いに漏れる息が、それぞれの唇に直にかけられる。

 少女二人の赤い唇が相手の吐息を感じられるほど再び近づけられた。


「……Palm to palm is holy palmers kiss……」


 相手の息を飲みながら、今度はシースが熱の籠った英文を静かに呟いた。

 流暢な英文を口にしながら、シースは峰子の手をぐっと握りしめる。


「ウィリアム・シェイクスピア著『ロミオとジューリエット』第1幕第5場ジューリエットのセリフ。『手と手をぴったり合わせるのが巡礼者の接吻くちづけでございましょう』ね……」

「そう……二人の愛の始まりを――そして全ての悲劇の始まりを告げる言葉……」


 互いの唇が触れ合わんばかりの距離で、二人は相手の息を飲みながら言葉を交わす。


「怖いの? シースちゃん?」


 峰子がシースの瞳を覗き込む。

 目にしたのは揺れる赤い瞳。感じたのは、その手に伝わって来る相手の震え。

 その震えはもう一方の手で持つ古い洋書も震わせていた。


「恐れてなどいない……劇場で見た貴女のジュリエットのセリフに、私が滂沱の涙を流したあの日――」

「……」

「あの日、全てを決めた……」

「そう……」


 シースと峰子は誰もいない廊下で、何かを誓い合うかのように固く――今度は正面から互いの柔らかな唇を重ねた。

 


参考文献(ウィリアム・シェイクスピア訳文参考書籍)


『ロミオとジューリエット』平井正穂訳(岩波文庫)

『十二夜』小津次郎訳(岩波文庫)

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