第3話 邂逅
小屋から出てしばらく進むと、警備兵たちは離れた通りにいた。一瞬、やはり逃げるべきかと思ったが、自首による情けの可能性が失われるから、考えるだけでやめた。荷車二台がやっと通れるくらいの通りの頭上には、建物から建物へサイズも色も様々な洗濯物が渡してある。警備兵たちは道の端に寄り今後の捜索を話し合っているようだったが、ヴァンの姿を認めるなりすぐに縄をかけた。間抜けな奴だ、と誰かがいった。まさか、獲物が自ら飛び込んでくるなど予想できず、僥倖だと思ったに違いなかった。
「手間かけさせやがって」
警備兵の一人がヴァンの頬を殴った。一歩、二歩とよろけるが、抵抗する気はなかった。逃げ回ったせいで大勢の警備兵に囲まれており、大事になってしまっていたのだ。ここで暴れればますます説得など無理な話に近い。ヴァンは唇を噛み、ぐっと堪えた。
座り心地の悪い荷車に乗せられ、ヴァンは連行された。取り調べ所に着くと、一人の壮年の警備兵が座っていた。威圧感のあるその警備兵はイセエビの殻を剥いていて、ヴァンなど気にも留めていない様子だった。壁が薄いのか、隣の部屋から女が誰かを激しく罵る声が聞こえてくる。
「座れ」
連れてきた警備兵に、ヴァンは乱暴に押しつけられる。対照的に壮年の警備兵は黙ったままで、ヴァンを見向きもしなかった。
恐れ、戸惑い。警備兵が退出し、一人取り残されるとヴァンのなかに様々な感情が湧きあがった。目の前にいる男はなおも顔を伏せたままに、イセエビを構っている。
――一体、俺は何をされるのか。こいつは誰なのか……。そう思っていると、湿った咳払いをして、
「また君か。トラブルがあるといつも君がいる」
と、嘆息した。
いわれた意味が分からなかった。
「何かいったらどうなんだね。まったく少しは大人しくしてほしいものだよ」
そういって顔を上げた警備兵に、ヴァンは驚いた。
「ジオジー……どうしてアンタが」
「どうして?」ジオジーは尻上がりにいって「それは俺が聞きたいことだよ。非番で食事中だったのに、急に欠員が出て今ここにいる。これこそ、どうして、だろ。おかげでここで君を待ちながら、食事などしてる。この薄暗い汚い部屋でな。酷い扱いだとは思わないか」
ヴァンの顔に自然、笑みが広がった。ジオジーの口調は乱暴だったが、真剣に怒っていないのは明白だった。一時は刑務所送りさえ覚悟したが、もしかしたら当事者同士の話し合いで済むかもしれない。そう思って、ヴァンの肩の力が抜けた。
ジオジーは髪を撫でつけて、「まあ、予想はしていたんだ。部下に商店にいかせて、そこの女がいってたんだよ。鋭い目をした少年とな」
「さすが、商人の目はごまかせないな」
ヴァンが軽口を叩くと、釣られたようにジオジーが笑った。
いつか、夜のルデカルを歩いているとき女が男に襲われていることがあった。ヴァンは無視することもできたが、女の哀願に引き返し、男に一発かました。それが街の重役だと知らずに。そうしてヴァンは連行されるのだが、そこでこの壮年の警備兵――ジオジーと数奇な縁を生んだ。ジオジーはそれなりの役職にあるようだったが、鼻持ちならない他の奴らと違って、数少ないまともな存在だとヴァンは思っている。
「ともかく、俺でよかった」
ジオジーはヴァンの手首をくくっていた縄を解いた。強く締め付けられていたから、手首が真っ赤になっている。ヴァンは戸惑いながら、手首をさすった。
「取り調べはいいのか」
「パンの件はもういい。解決した」
「解決って。誰かが立て替えたのか」
すると、ジオジーは笑って、「んなこと誰がするかよ。このルデカルの街で。そうじゃなくて別件が判明したんだよ」
「別件?」
話が見えない。
「ああ、もっと大きな事件だ。部下の話には続きがあった。お前を追おうと走りだそうとしたとき、商店の客に声を掛けられたんだ。そいつは商店の女が詐欺を働いたという」
「まさか。そんな偶然」
「俺もまさかと思ったよ。同時に、これから捕まえようってときになんて間の悪いやつだとも。しかし、いわれた以上事情を聞かなきゃならねぇ。部下は人員を割いて、話を聞いたんだが、どうやら真実らしかった」
「どうやって真実だと?」
「客だよ。他の客が同調し始めたんだ。やれ傷んだ商品を売られただの、偽物だっただの、現場を落ち着かせるのは大変だったらしい。それこそ、客は警備兵が集まったのは、商店の女を捕まえるためだと思ったみたいだ。つまり、女に騙されたって奴は一人じゃなかったんだな」
ヴァンは呆気に取られた。聞けば、サリュが盗んだパンは食用に喫するものではなかったということだった。
「それでその人はどうなったんだ」
「女か? それなら」ジオジーは壁に顎をしゃくった。「隣でわめいてる。店に山ほど証拠があるのに、滑稽なものだよ」
さっきからうるさい声がしていたのは、商店の女だったとは。皮肉だった。
「さ、そうと分かったら、帰った帰った」
ジオジーは追い払うように、手を振った。
「ジオジー、なんと礼をいったらいいか」
「礼なら商店の客にいってくれ。俺はなんもしてねぇ。そんなことより、俺は食事をするんだ。邪魔をしないでくれないか。ただでさえ休日で頭にきてる」
自分がいるのにイセエビにかぶりつく姿に、ヴァンは苦笑した。それがジオジーなりの照れ隠しであることが分かっていた。本来、事件があるなら取り調べは必須であるのに、それをしないで解放するというのだ。ジオジーの配慮にほかならなかった。
「ああ、そうだ」
部屋を出る直前、ジオジーは思いついたようにいった。
「すまないが、腕を見せてくれないか」
「腕……?」ヴァンの背に一筋の汗が流れ落ちた。「どうしてまた」
「ここに連れられるとき、商店の女がいってたんだ。お前が移民だって。――笑えるだろ。あの女、そんな悪あがきしても無駄だっていうのに」
「ああ……」
そういうことか、とヴァンの顔が青ざめた。あの女は道連れを選んだのだ。
「そう気を悪くするなって。お前が移民じゃないことは、分かりきっているんだ」
ジオジーが笑った。ヴァンが腕を見せないのを、プライドだと勘違いしていたようだった。
「さ、見せるだけだ。なにも難しいことはねぇ」
それでも、ヴァンは腕をまくらなかった。それを見られたらおしまいだと分かっていた。こうなるのならば、逃げていればよかった。たとえ捕まるかもしれなくても、逃げ続けていれば望みはあったのだ。それを自ら手放したなんて。
ヴァンは呆然としていた。言葉と希望を失っていた。
「どうした……ヴァン? お前まさか」
緊張が走る。ジオジーの顔から笑みがなくなった。
ジオジーは気づいていた。咄嗟に扉に向かおうと、逃げようとしたときだった。
「動くな!」
突然、激しい音がした。自分の頬を何かが横切って、ヴァンは眼前の扉を見る。穴が空いていた。穴から、外に待機しているほかの警備兵が目に入る。
「頼むから動くなよ……」
振り返ると、ジオジーは鉱石をヴァンに向けていた。そのまま、もう片方の手で椅子を指し示す。座れ、と命じていた。ヴァンが座ると、背後の警備兵が再び縄をかける。
「ジオジー……頼む。見逃してくれ!」
「すまねぇな、ヴァン。こればっかりは規則なんだ。この街の絶対に破れない規則なんだ」
ジオジーは哀れんだ目をしていた。警備兵がヴァンの服を強引に脱がせる。露わになるヴァンの肉体には、腕を含む体の数カ所に黒色の直線と曲線が施されていた。ヴァンの出自や両親の名前が書かれているのだが、警備兵たちは口を開けるばかりで何も分かっていないようだった。ただ広がるのは嫌悪感と、別種の生き物を見たときのような、あの恐れ。
「残念だよ、ヴァン」
ジオジーは本心からいっていた。だが、ヴァンにはそんなジオジーの言葉も空しく響くだけだった。
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