第2話 逃走
路地を戻り、大通りを抜け、ヴァンはサリュとともに早足で歩いていた。向かう先は先刻、マメを買った商店だ。
ヴァンはサリュを叱った。自分のためにパンを得ようとしたのは嬉しかったが、いかなる理由でも盗みは許されなかった。謝りに行くといったのがサリュだったのは幸いだった。過ちを過ちだと認識はできているようで、兄として少しだけ心が軽くなった気がする。
商店に着くと、ちょっとした人だかりができていた。商店の女が警備兵に声を荒らげている。手を自分の腰元へ近づけ、微かに「このくらいの背丈で」という声が聞こえる。さらに別の男が頷き、「確かあっちの方へ」と俺たちがいる方向へ指をさした。
「あ、あいつよ! あのガキども」女が叫んだ。
たちまち、場が開けてヴァンの姿が露わになる。視線が集まり、ヴァンは後ずさる。
ヴァンはサリュの腕を掴んだ。「行こう」
「でも、返さないと」
「遅かったんだ。逃げるぞ」
「そこのお前、待て!」
警備兵の人数を確認する間もなく、ヴァンはもと来た道へ駆けだした。
幼い頃からヴァンは走ることが好きだった。体力にも自信があるし、ルデカルを踏破することは容易かった。それに日雇いの仕事をしていれば、毎日現場が異なるから、ルデカルの構造には詳しくなる。
鉱石の力で潤ったこの街には都市計画などない。鉱石資源を得て、それを労役に活かし、次々と新しい建造物が建てられていた。風の鉱石の力は凄まじく、手のひらに載る程度で大人百人ほどの力を有すると聞く。ヴァンもまだこの目で見たことはないが、何もなかった場所に明くる日荘厳な神殿が建立されているのを見ると、それが誤りでないことが分かる。不要ともいえるほどの建物が連なるのは、かつて貧しかったこの街の反動だった。そのせいで新参者でなくとも、日が落ちれば自分の家も分からなくなる、と揶揄されることもしばしばあった。
が、ヴァンは違った。ヴァンは街を足で覚えていた。
「おい、逃げるな!」
警備兵の声を無視して、ヴァンは走った。捕まえろ、という声が通行人に届く前に、ヴァンは風のように走り抜けた。警備兵は執拗に追ってきたが、スラムに入ればこっちのものだった。警備兵は賢い。だが、いくら賢くてもスラムの事情まで熟知しているとは思えなかった。
「お兄ちゃん」
ふいに呼びかけられて、ヴァンは振り返った。サリュの足が止まっている。
「止まっちゃダメだ。逃げないと追いつかれる」
「でも、お兄ちゃん、もう走れない」
「サリュ――」
あと少しの辛抱だ、と言いかけて言葉を飲み込んだ。息が上がっていて、サリュの顔は真っ赤だった。
「おい、いたぞ!」
遠くから警備兵の声がした。見ると、先ほどよりも人数が増えている。応援を呼んだのだ。警備兵たちは肩を怒らせて、足場の悪い泥だらけのスラムの道をやってくる。
「どうしよう……」サリュの声が震えた。「あんなところまで来てるなんて。――わっ!」
ヴァンはサリュを背負い、そのまま目についた細い道に向かった。汚水の臭いが酷い。片手で鼻を塞ぎながら走っていくと、道を抜けた先に粗末な小屋があった。滑り込むように小屋に入る。なかには調度品も何もなかった。とうの昔に遺棄された小屋のようだった。
サリュは背中から滑り降り、その場にぺたりと座り込んだ。
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
「サリュは軽いから全然平気だよ」
「そうじゃなくて……。こんなことになって、ごめんなさい」
「それも謝る必要ないよ」
サリュの表情がわずかばかり緩んだが、額には汗が浮かび疲労が滲んでいた。ヴァンはサリュの頭を軽く撫でる。
どうするか……。担いで走ることも考えたが走力が落ちるのは避けられない。あるいはずっと隠れていようかとも思ったが、それだって捜索の手が及ばないとも限らなかった。
ならば、とヴァンはサリュを粗末な棚に隠し、壊れた窓から外の様子を窺った。警備兵の姿は見えない。ここまでたどり着けてはいないようだった。今が好機だ――ヴァンは戸に向かう。
「サリュはここにいろ」
「……お兄ちゃん? どこ行くの」サリュが泣きそうな声を出す。
「警備兵と話をつけてくる」
「待ってよ。サリュを一人にする気?」
「しないよ。一人になんか」
「私のせいなんだから私も行くべきよ」
「大丈夫だ」ヴァンは優しくいった。「兄ちゃんは説得が得意だから。すぐに戻ってくるよ」
「本当に? 店の人が許してくれなかったらどうするつもりなの」
サリュの不安な表情を拭い去るように、ヴァンは笑顔を浮かべる。
「そんな心配しなくて平気だよ。確かにパンは潰れてしまって返せない。でも働いて返すことはできる。警備兵の人たちもきっと事情は分かってくれる」
「でも……それでも捕まっちゃったら」
「そうはならないよ。兄ちゃんの足の速さを見ただろう」
「うん。兄ちゃんはルデカルの風の子」
「ああ、そうさ。説得がダメだと分かったらすぐに逃げるよ。それに、サリュと兄ちゃん、二手に分かれた方が警備兵を撒けるとは思わないか」
「……」
サリュは俯いて考えていたが、やがて見上げた顔は納得してないことが明らかだった。ヴァンはサリュの肩に手を載せる。
「サリュ、必ず戻ってくる。約束する。お兄ちゃんが一度でも守れなかったことはあるか?」
「ううん。なかった」サリュの目尻に涙が浮かんだ。「兄ちゃんは絶対嘘つかない」
「だろう。だから……」
今度はヴァンが言葉に詰まる。ヴァンは振り返らず、戸を開けた。
「お兄ちゃん?」
「サリュ……」ヴァンは静かにいった。「もし日が落ちるまでに兄ちゃんが帰らなかったら、ここを出るんだ。ここを出て、イエーナおばさんのところへ行け。おばさんはきっとよくしてくれる」
「待ってよ。守るっていったじゃない」
守りたかったが、それが難しいことは分かっていた。警備兵は執拗で、逃げ切るのは不可能だとヴァンの勘が告げていた。この街は犯罪にはとても厳しい。たとえ謝罪して弁償するとしても許してくれるかどうか……。初めてサリュとの約束を破るかもしれない。ヴァンはそう感じていた。
「ごめんよ、サリュ……」
「お兄ちゃーーーん!!」
まるで心残りなどないかのように、ヴァンは一気に走り出した。
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