第6話
「あれ、アウロラ?」
勢い余って床に手をついたら、頭の向こうから探し求めていた声がした。がばりと面を上げると、すぐそばで熊が這いつくばっており、さらに向こう、窓に近い机のところでは兄が羽ペンを手にしたままこちらを見ている。
兄の顔を見ても、少女は床にへたりこんで動けない。呼吸が止まらず、体は震えて歯がカタカタ鳴っている。
「眠ったんじゃなかったのか」
「あ……かぜ……っ……に、ゆれっ……」
風雨や雷鳴のことを説明しようとしても、口の中が渇ききってうまく動いてくれない。
「ぉ……にいさ……いな、く……こ、こわっ……」
ひっくと喉が鳴る。もう一度言おうと口を再度開いた。兄は黙って耳を傾けていたが、言葉が途切れたところで一瞬、転がった熊に目をやり、続けて少女を頭から足先まで眺める。そこで急に頭が冷えて、心臓がどくんと脈打つ。
どうしよう。
熊まで連れてきて、裸足で、しかも時計も十回鳴ってしまって。
怒られるのかもしれない。
突如として不安が突き上げてきて、少女は口を半開きにしたまま固まってしまった。しかし兄は、了解した、と小さく頷き、真剣な面持ちをふっとやわらげ、少女よりも先に言葉を次いだ。
「私がいなくなったから、心配して探しに来てくれたのか」
その子も一緒に、と熊を示すと、兄は羽ペンを置いて立ち上がり、少女のそばまで来て跪く。
「ごめんね。部屋から来るのは大変だったろう。優しいな、アウロラは」
にこりと微笑み、少女の体を起こして立たせた。
——ちがうのに。そんなえらくないのに。こわかったのに。
説明しなくてはと焦ったが、舌が思うように回らない。緊張で固まった体に触れる兄の手は温かく、蘇芳色の瞳がこちらの瞳を覗き込んでいるのがわかると、ますます言葉が出てこない。少女は何か言う代わりに、きゅっと兄に抱きついた。
「ありがとう、頑張ったね。もう雷雨は止んだよ。大丈夫」
少女の背中に落ちる髪をゆっくり梳き、背中を優しくさすってくれると、兄は少女を窓の方へ連れて行った。
「ごらん」
見上げると、開け放たれた窓の向こうに真白に輝く月があった。風は穏やかに少女の髪を揺らして額を撫で、囁くような葉擦れの音に混じって虫の声が聴こえる。
雲が覆い闇深かった空には無数の星々が瞬き、窓近くの木に繁る葉の上では雨露が月明かりを反射する。
体の強張りはいつしか解け、乾いた喉が感嘆に震えた。
少女が夜空に見入ると、兄はそっとそばを離れて机へ戻った。そこで少女は、はたと重要な役目を思い出した。そうだ。
「おにいさま、ロスが」
「ん?」
机上の書物の頁に手をかけたまま、兄が問い返す。
「あのね、まだおべんきょう?」
「ああ」
何かを悟ったようで、「これは明日また小言かな」と兄は言うと、本を閉じて微笑した。
「昼に教わった中で解らないところがあったから調べに来たのだけれど、アウロラが来てくれたから、今日はもうやめるとしようか」
分厚い書物を戸棚へ戻し、引き換えに彩り鮮やかな装丁の本を抜き出した。
「アウロラの好きなシレアの妖精の話を読もうか。この間は途中までしか読めなかっただろう?」
書架の脇に据えられた布張りの長椅子に腰掛け、兄が手招きする。少女は窓下の台から跳び降りて走り寄り、兄にぴたりと身をつけて座った。
物語を紡ぐ兄の声は適度な抑揚を含んで美しく、澄んで耳に心地よい。少女は心躍る挿絵を眺めながら、流麗な調べに聞き入った。
「あれ、カエルム殿下」
ロスは大臣からの伝言を宿直の衛士に伝え、自室に戻る廊下の途中で主人に出くわした。兄王子は呼びかけに気付いてロスの方へ顔を向けたが、返事はせずに人差し指を口の前に立てる。その腕には薄桃色の寝間着姿の少女が抱かれていた。
「重くないですか。代わりましょうか」
「いや、大丈夫」
ほかに何かないかと囁き声で問うと、王子は一度否定したが、やや間をおいてから「ああでも、そうだな」と付け加えた。
「頼んでもいいなら図書室に熊を迎えに行ってもらおうかな」
「熊?」
「行けば分かる」
意味ありげに王子が述べると、ロスも先ほど少女と出会った時のことを思い出した。了解を示し、図書室の方へ走る。
数時間前と同じ寝台に少女を寝かせ、毛布を肩まで掛けてやる。よほど深い眠りについたのか、少女は部屋までの道すがら起きる気配も見せず、いまやすうすうと安らかな寝息を立てていた。
額をそっと撫で、布団から出た手に手を重ねて囁く。
「ゆっくりおやすみ、アウロラ」
妹王女の顔に幸せそうな笑みが浮かび、小さな手が兄の指をきゅっと握り返した。
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