第4話
ひっ、と変な音が喉から出て、途端に竦み上がる。すると細長い影がやや動き、背後から声がした。
「姫様?」
聞き知った声だ。それでも突然のことに驚きが消えなくて、そろそろと後ろを振り返る。柔和な雰囲気の男性の怪訝な顔がすぐそこにあった。
「どうなさったんです、こんな時間に」
問いかける声に怒りや咎める調子はなく、少女はやっと肩を下ろした。男性はまだ若く、年は兄より少し上くらいだったはずだ。青年と言って良い。口煩い老中や女官長だったら大変だった。運が良い。
熊を盾にして少女がじっと見上げていたせいか、男性は首の後ろを掻いて歯切れ悪く切り出した。
「ええっと、姫様。俺のこと、分かります?」
分からないはずはない。先だって新しく大勢の者たちが城に雇われた中に、青年はいた。それも自分たち王族に一番近い衛士団に配属されている。そして、さらに別の理由で、新参者の中でも少女が日々最もよく見るうちの一人だった。
「……ろす、さん」
自分が覚えようとしなくてもしっかり記憶に縫い付けられた名前を口にすると、青年は破顔した。
「はい、ロスです。さん、はいらないですよ。覚えて頂いていて光栄です」
城勤めの人たちや城を出入りする人の顔と名前は覚えておくものである。両親も兄もそう言っているし、そうしている。なのに何をこの人、当たり前のこと言ってるんだろう、と不思議に思う。
それに目の前の青年を覚えずにいる方が、少女には無理だった。この人物はなぜかやたらと兄と共にいる。衛士団に入団して以来、他の衛士の誰よりも一緒に見かけることが多いし、朝早くから稽古に付き合い夜もしょっちゅう何やら話し込んでいるし、兄が城下に出かける時についていくことだって珍しくない。
ちょっと、ずるい。
一度父に聞いてみたところ、ゆくゆく「側近」になるだろうから今から共に学ぶことも多いのだ、と説明してくれた。ただ、そう聞いても少女にはいまいちよく分からなかった。わかったのは、少女が兄と共に城下へ行くと言っても侍女に叱られるのに、この青年は違うということなどだ。
ずっと一緒にいるのだから、この人なら兄の場所を知っているだろうか。しかし簡単に聞いてしまうのには躊躇いを感じる……だってなんだか、悔しい。
少女はますます、じぃ、と青年を見つめる。青年は先ほどの柔和な笑みを消しこそしないが、やや困ったように眉尻を下げた。
「姫様、もしかして俺のこと、嫌いですか?」
「きらい……」
問われたままに繰り返す。
「嫌い」、だろうか。
確かに日中は、遊びはもちろん勉強も兄とは別々の少女にとって、武術の訓練や城内外の仕事に関することでも兄と共にいるロスは羨ましい。
だが、羨ましいけれど、ロスといる時の兄は楽しそうなのだ。兄は同年代の友人など城にはいなかった。常に大人達に混ざっていた。その兄が全く違う顔を見せる。そんな兄を見ると少女も嬉しくなったし、なんと言ってもこれまで知らなかった兄の笑顔を見るのが、少女は心の底から大好きだった。
それに、別段ロスは少女に何か意地悪をするわけではない。逆に城で会うと、少女にも優しい。そして兄もロスが来たからといって少女に対する態度を改めたわけでもないし、ロスのせいで一緒にいられないという話でもない。特にロス本人が嫌なことは思いつかない。
「じゃない、です」
「それは良かった」
いつしかしゃがんで少女と目線を合わせていた青年は、呟き声ではあってもしっかりとした返事に破顔した。一方少女は、聞こうか、聞くまいか、まだ決心が付かず、熊をぎゅうと抱きしめる。
すると、青年が切り出す方が早かった。
「殿下をお探しですか?」
熊と一緒に俯きがちになっていた少女は、もう一度青年の目を見てこくりと頷く。どんな返事が来るかそわそわ期待が這い上がって来て、落ち着こうと熊の腹にますます腕を食い込ませた。その様子に気づいているのかいないのか、青年の方は少女の肯定を受けて「んー、言ってもいいのかなこれ」とか「しかしあの人子供の癖にやりすぎだろ」とか独り言を続けている。
自分には秘密なのかしらと、えも言われぬ悔しさが燻りそうになってきたところで、やっと青年が「ま、いいか」と少女と再び視線を合わせた。
「殿下ならけしからんことにこんな時間まで勉強中です。図書室にいらっしゃいますよ」
「ほんとう?」
「ええ。殿下ももうお休みになるべき時間ですからね。姫様が行って休ませてください」
了解の代わりに大きく首を縦に振り、少女は踵を返して駆け出した。走りながら振り返り、熊を持たない右手を大きく振る。
「ロスありがとうっ! だいすきーっ!」
少女を見送りながら、ロスは立ち上がって苦笑した。
「うっわぁ、現金だなぁ……」
巨大な茶色のぬいぐるみが大きく宙に揺れ、薄桃色の小さな寝間着姿がぱたぱた音を響かせながらみるみる向こうへ小さくなっていく。
その様子を見つつ、ロスはいずれ並ぶだろう二人の
**続く**
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