第3話
階段まで来ると、少女は熊を抱えて座り込んだ。茶色い頭に顎をうずめて、どこへ行こうか考え込む。
もしかしたら、露台かもしれない。
あそこなら夜でも城下町に立つ美しい時計台がよく見える。少女と兄も一緒に行って、何をするでもなく時計台を眺めることもよくある。
そうと決めたら、少女はすっくと立ち上がった。露台は一つ上の階のはずだ。少女は熊を抱え上げ、階段に足をかけた。
しかし数段昇ったところで、ふう、と立ち止まる。
熊が前にいると昇りにくい。
「ごめんね」
謝って熊の短い腕を取り、段をもう一段昇る。熊が段にぶつかって弾んだ。もう一段昇る。やっぱり弾んだ。ぶつけないようにと思っても、そんなに高く大きな熊を持ち上げられない。
「ごめんね、すぐ昇っちゃうからね」
次の階までまだまだ段はあったが、できる限り急いで腿を上げた。寝間着の裾が絡んで動きにくい。城の階段はどこも段差が大きく、もうだいぶ背も伸びたのに、あまり早くは昇り降りできない。
「えしょ、えしょ」と体を持ち上げるたびに、ぽん、ぽん、と熊が弾む。痛そうで不憫だが、少女には早く上の階に辿り着くしか解決策がない。
「とうちゃく……」
漸く最上段まで昇り——正確にはその一つ下の段まで上がって最上段に手をついていた——先に上階に到着させた熊の胴体をさすってやる。少女も休みたいが、そんな暇はない。
「いきましょ」
そう呼びかけて、今度は自分が先導し、熊の手をとって走り出した——熊は後ろ向きで床面を滑ってついていくしかなかったのだが。
上階の廊下には大きな窓が片面に並んでいたが、荒れ狂う風の音は聞こえない。時折りごろごろと低い唸りがするものの、あまり大きくない。今は兄を探さなくてはいけないし、熊が一緒であるし、何とか我慢できた。
いくつもの窓を過ぎ、父と母の部屋を過ぎ、途中で隣の棟へ続く廊下を横切った。視界の先に露台の入り口が見えてくる。駆け足になって、あと数歩のところまで近づいた——その時。
「きゃあぁぁぁぁっ!」
少女は熊をほっぽってしゃがみ込み、頭を抱えた。
突然、露台に出る扉の硝子の向こうに閃光が走ったのだ。さらに一呼吸おいて、けたたましい雷鳴が部屋の中まで切り込んで来たかと思うほどに耳をつんざく。
音が途切れた瞬間、少女は全身の力を振り絞ってがばりと立ち上がり、転がった熊を引っ掴んで来た道を一目散に駆けた。
今日みたいな日にあんなところに兄がいるわけがない。
目を瞑ってひた走る。一刻も早く露台から遠ざかろうと闇雲に手足を動かしていると、見えない視界の外で、鐘楼の澄んだ音が十回、少女の神経の全てに触れて、廊下の向こうへ突き抜けていった。
——どうしよう……
時計台の鐘は雷鳴の恐怖を和らげてくれたが、別の不安が襲ってきた。どんなに夜更かしをしてしまった日でも、あの音が十回聞こえるまで、と父にも母にも侍女にも大臣にも、繰り返し言われていたのに。
そのことに気がついてはたと立ち止まると、すぐそばの階段の下から声が聞こえた。まずい。話しているのは大臣だ。少女は大急ぎで首を左右へ振ってあたりの様子を確かめると、隣の棟へ続く廊下へ飛び込み、壁へぴたりと背中を付けた。
階段を昇る足音が近づき、しばし止まる。二人連れだろうか。様子を見たいけれども今顔を出したら見つかってしまう。仕方がない。息を潜めてじっと身を固め、耳に神経を集中させた。
「それでは明日は、殿下の朝稽古のお相手をしたらまず私のところへ」
大臣が告げるのに対し、相手の返事は聞こえない。向こうを向いているのだろうか。だがいずれにせよ間も無くして足音が遠ざかり始めた。
少女は呼吸を止め、そっと壁の角から廊下を覗く。廊下の向こうへ大臣の長い羽織がどんどん小さくなっていくのが見えた。
肩の力を抜くのと一緒に細く息を吐き出す。緊張で先程の恐怖は吹っ飛んでしまった。ともかく、早く兄を見つけて部屋に帰らないと。さすがに時計が十一回鳴ったら、兄にも許してもらえない気がする。
熊は少女に手を掴まれ、万歳をして前に立っている。そのままの姿勢で、少女は熊と一緒に別棟の方角へくるりと向きを変えた——それと同時だった。
床に映った少女の影に、後ろから少女よりずっと大きな影がぬぅっと出てきた。
**続く**
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