午後九時三十分の出会い
「今日はもう来ないのかと思った。」
彼女はブランコを揺らしながら悪戯っぽく呟く。
年上のはずの彼女は、時々子供みたいなことを言って僕を困らせる。
そんな彼女の攻撃に初めの方はやられっぱなしだった僕も、今では少しのことでは動揺しなくなった。
「来ないわけないです。さっきも言った通り、今日は塾の授業が押して、僕だって雪音さんと話す時間が減るのは嫌です。」
きちんと目を見て言い返す。けれど僕はやはり彼女には勝てない。
彼女は僕の言葉を聞くと、満足そうな笑みを浮かべてこう答えた。
「律君は私と話すの好きなんだ〜。まぁ、私も律君と話すの好きなんだけど
ね。」
「・・・っ。」
思わず言葉に詰まる。
あー、やっぱりこの人はずるい。
無邪気に笑う彼女を見て思う。
僕が素直に言えないことを簡単に言ってくる。
これが年上の余裕というやつなのだろうか。
そんなことを思いながら彼女を見つめていると、見つめ過ぎたのか彼女は
「私の顔に何か付いてる?」
と不思議そうに聞いてきた。
もちろん何かついているわけがないので
「何もついてないです。」
と答えるしかない。
すると彼女は、心からほっとしたような声で
「良かったぁ〜。」
と呟いた。
こんな他人から見たらどうでもいいようなやりとりを、ほぼ毎日三十分、三週間近く続けている。
お互いに名前しか知らないというのに、居心地がいいのは何故だろうか。
彼女の隣が心地よく感じるこの気持ちの正体を僕はまだ知らない。
僕が雪音さんと出会ったのは、3週間ほど前のことだった。
その日は、信号に捕まるのが面倒で、塾から帰る道のうち、信号がないルートから帰っていた。
このルートは信号に捕まらない代わりに、人がほとんど通らず、お店も無い為とても暗い。
道の途中にあるのは、住宅街の中に突如現れる小さな公園くらいで、男子高校生だとしても一人で通るには勇気がいる。
その為、普段は絶対に通らない道だった。
若干の恐怖心を抱えながら公園を通り過ぎようとしたそのとき、ブランコに座る一人の女性が目に入った。
こんな時間に人がいたことに対して驚いたのと同時に、後ろ姿から伝わる彼女の冷たく刺すような美しさに、僕は目を奪われた。
心臓の鼓動が速くなるのがわかる。
けれどもそれが恐怖心や不安からくるものでないということはわかっていた。
気がつくと僕は自転車を止め、公園の中に入っていた。公園に入ると、足音に気づいた女性が僕を見上げた。
微かな月明かりに照らされたその顔は、どこか儚く切なげで美しい。
また透き通るような白い肌が、暗い夜によく映えていた。
暗闇の中でも目を引くその顔立ちは、誰が見ても間違いなく惹かれるだろう。
想像以上の美しさに、僕は思わず息を呑む。
しかし、そんな見た目とは裏腹に、彼女は僕の存在を確認すると、勢いよく声をかけてきた。
「こんばんは!」
あまりの突然の出来事に思わずその場で立ち止まる。
まさか向こうの方から声をかけてくるとは思ってもいなかった。
想定外の出来事に数秒の間言葉が出なかったが、挨拶されたことに気づき、慌てて返事をする。
「こっ、こんばんは。」
すると彼女は自分から挨拶してきたにもかかわらず、狐につままれたような顔で僕を見つめ、もう一度さっきよりも優しい声で話しかけた。
「君、名前は?」
「えっと、海崎律です。」
僕は素直に答える。
別に答えずにそのまま逃げても良かったのだと思う。
普段の自分なら、公園で会った人に名前を聞かれて、素直に答えるなていう安易なことはしない。
けれど、僕の目の前で目を輝かせている彼女との会話をここで終わらせてしまっ
たら、またもとのつまらない日常に戻ってしまう気がして、答えずにはいられなかった。
そもそも自分から公園に入って行ったのだから、目の前で逃げ出すのも失礼
だろう。
僕が名前を名乗ると、彼女は嬉しそうに目を細め
「リツ君、リツ君・・・、」
と何度か繰り返し、やがて少女のようなあどけない笑顔で
「いい名前だね。」
と微笑んだ。
それから僕たちは年齢や好きなことなどお互いの軽い自己紹介で盛り上がった。
僕は彼女の名前が雪音だということ、自分よりも二歳年上の十九歳だということなどを知った。
今日会ったばかりだというのに、初めて会った気がしないくらい僕たちは気が
あった。
普段人と話すことを極力避けてきた自分だが、こんなに人と話していて楽しいと感じたのは生まれて初めてだったと思う。
けれど楽しい時間はあっという間に過ぎるというのは本当で、気がつくと時計の針は十時を指そうとしていた。
そろそろ帰らないとまずいな。
僕が時間を気にしていることを感じ取ったのだろう。
雪音さんは
「そろそろ帰ろうか。」
というと、ブランコから立ち上がった。
名残惜しさはありつつも、僕もブランコから立ち上がる。
心なしか寂しそうに揺れるブランコの軋り音が、夜の街にこだまし、やがて
消えた。
「今日は話してくれてありがとう。楽しかった。」
雪音さんは僕が自転車に跨ぐの待ってからお礼を言う。
ここで素直に
『僕も、楽しかったです。』
と言えたりすれば格好良かったのかも知れないが、僕の口から出たのは
「いえ。」
の一言だった。
結局そのまま
「またね。」
と手を振ってくれた雪音さんに見送られ、僕は公園を後にしたのだった。
それからというもの、僕は塾がある日は勿論、雨の日以外は公園に行くように
なった。
時間は決まって九時三十分。
別にこの時間に約束をしたわけではないが、ただなんとなく初めて会った時間がこのくらいだったため、その時間に行くようになったのだ。
公園に着くと、雪音さんは決まって初めて会った時と同じようにブランコに座っていた。
まぁ、この公園には、ブランコの他に小さな砂場と、滑り台、そして薄汚い今にも壊れそうなベンチがあるくらいのなので、そこに座るのは納得がいく。
しかし不思議なことに、僕はこの三週間、雪音さんよりも早く公園に着いたことがなかった。
今日のように塾の授業が押したならわかるが、予定より早く着いた日も、雪音さんは先に公園で待っていた。
けれど、時間を明確に決めているわけでもないので、僕に時間を聞く権利はないように思う。
それに、初めて会った日も九時半よりも前にいたのだから、この公園に来る理由が何かあるのかもしれない。
僕はブランコを揺すりながら
「今日は、秋の四角形が見えるよ〜。」
なんて呑気に話している彼女に、ふと浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「雪音さんはなんでこの公園に来るんですか。」
数秒後、鳩のようにキョトンとした顔をしている雪音さんを見て、自分の質問の仕方が悪かったことに気づく。
案の定彼女は僕がからかっていると勘違いしたのだろう。
僕の方に首を向けると
「律君とお話しするためだよ。」
と当たり前のことを教えるかのような顔で答えた。
自分の顔が真っ赤になるのがわかる。
「そうじゃなくて、いつも僕より先にいるからこの公園が好きなの
かと・・・。」
結果、不意打ちで自爆することになった僕は必死に質問を変えた。
今日ほど夜の暗さに、感謝する日はないだろう。
「あー、別にここが好きなわけじゃないよ。」
雪音さんは、恥ずかしさで死にそうになっている僕をよそに答える。
「そうなんですかっ?」
てっきり何か理由があると思っていた僕は、驚きと、まだ抜けない体の熱さで声が裏返った。
「うん。私がこの街の中で一番好きなのは、定番かもしれないけど『桜の丘』
かな。」
「あー、わかります。」
僕はできるだけ平然を装って返事をする。
「あそこは、春に咲く桜が人気だけど、私は落ち葉が散り始める今くらいの季節
が一番落ち着いてて好きなんだよね。なんか心を落ち着かせてくれる気がし
て。まぁ、街の人たちは、あんまり春以外に魅力を感じないみたいだけど
ね。」
そういうと雪音さんは少し寂しそうに笑った。
確かに桜の丘は花見シーズン以外に行く人は少ない。
名前からもわかるように、春になると満開の桜が咲く桜の丘は、地元で知らない人はいない穴場だ。
けれど、近くに駐車場がなく、歩きか自転車で行く以外方法がないため、普段から訪れる人はいない。
また、春に咲く桜は、テレビで紹介されるようなところに負けてないくらい綺麗だが、桜が散ればその辺の田舎にある、何もない小さな丘なので、魅力を感じる人は中々いないだろう。
だから、僕以外に桜の丘に、春以外の魅力を感じている人がいたことが嬉しかった。それが雪音さんであることも。
「僕も、この季節の桜の丘、好きです。殺風景に感じる人も多いかもしれない
けど、それが逆に味を出しているというか、写真に撮るといい画になるんです
よっ。」
僕は早口で語る。
うっかり秘密にしていたことを話しているとは気が付かずに。
「律君て、写真好きなの?!」
雪音さんが驚きと興奮が混じったような顔で聞いてくる。
「えっ、あっ、その。」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
雪音さんはブランコから身を乗り出し、初めて電車を見た子供のように興味津々な様子で、僕の返答を待っていた。
「いや・・。」
思わず目を逸らす。
『写真が好き』なんて言ったら、また馬鹿にされるかもしれない。
意識が霧がかかったように遠のいていく。
もしも写真がただの趣味じゃないとしれたら?
雪音さんが周りの人たちと同じように現実を見ろと言ったら?
背筋に冷たい汗が流れた。
雪音さんが人を馬鹿にするような人でないことはわかっていても、僕の脳裏にそんな考えが浮かぶ。
すると僕の様子が急に変わったのを不審に思ったのだろう。
雪音さんは
「もし話したくなかったら、無理に話さなくても大丈夫だよ。」
と、小さい子をなだめるような柔らかい声で言った。
その声を聞いた瞬間、僕の中にあったさまざまな不安が消えていくのがわ
かった。
雪音さんは周りの人たちとは違う。
それはこの三週間話してきた中で、確かに感じていることだった。
雪音さんにだからこそ、このことを話しもいいのではないか。
僕は軽く呼吸を整えると、心配そうに見つめる雪音さんの顔をしっかりと見て答える。
「すみません。別に、そういう訳じゃないんです。ただ、周りにあんまり言ってないのと、少し家族と写真のことで揉めたことがあって・・・、だから雪音さんに話したくないとか、そういうことではないんです。」
先ほどまで心配顔だった雪音さんの表情が明るくなる。
「そうだったんだ。てっきり、私、なんかまずいこと聞いちゃったのかと
思って、でもそっかぁ〜、律君が・・・。」
そいううと、雪音さんはふと懐かしむように目を細め、聞き取れないくらいの小声で何か呟いた。
「雪音さん、今なんて言・・・?」
「律君が撮った写真、見てみたい!」
僕が聞き返そうとしたそのとき、雪音さんは急に名案を思いついたとでもいうような表情で、僕の言葉を遮った。
「へっ?」
突然の要求に、思わず間抜けな声が出る。
「だって、律君が撮った写真なんか絶対にいいに決まってるもん。」
雪音さんはなぜか自信に満ちた口調で答える。
「いや、人に褒められるようなものじゃないと思います。今なんか、みんな写真
くらい撮るし、僕なんか下手の横好きみたいなもので・・・。」
僕は必死に言い訳をする。
けれど、雪音さんは僕の言い訳になんて、全く聞く耳を持たないとでもいうふうに、強引に話を続けた。
「そんなことないよ、絶対!とにかく、もう今日は帰らなきゃだから、明日、
絶対見せてよ!約束ねっ!」
結局、強引に話を進められた僕は
「わかりました。」
というしかなかった。
雪音さんはいつもそうだ。
僕が聞くことは曖昧に答えておきながら、僕のことを知ろうとする。
けれど、そんなずるい彼女を愛おしいと思ってしまう僕は、かなりの重症なのかもしれない。
現に今だって、秘密にしていたことを知られて最悪なはずなのに、雪音さんになら見せてみたいと思ってしまっている自分がいる。
「あ〜、本当にずるい。」
僕の小さな独り言は、雪音さんの耳に届くことなく、澄んだ空へと消えて
いった。
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