第60話
「──俺がいなくなったらもう、俺から解放されろ。自由に生きろ」
愛してやれないくせに、手放すのは惜しくて縛り付けていた。
俺の、大切にしたかった人。
だけど、大切にしてやれなかった人。
(ごめんな、美緒)
もっと早く気付いてやれていたら、違った結末があったかもしれない。
朝目覚めてから夜眠るまで隣にはいつもお前がいて、温かい日差しの中、笑い合って。お前と同じ道を歩んで──。
そして、俺らの間にはいつか……小さな小さな美緒に負けないような天使がいたかもしれない。
三人で手を繋いで、夕暮れの中を帰っていく。
春夏秋冬、お前と何度だって繰り返して、じいさん、ばあさんになっても寄りそって同じ景色を見て生きていけたかもしれない。
穏やかな時間を、ただお前のそばで──そんな人生も、あったかもしれない。
(──ごめん)
お前にだって、もっとまともな人生をやれたかもしれない。
別れを告げられてからは、お前の声が耳から離れなくてどうしようもなかった。
聞き慣れていた俺を呼ぶ声は、とても愛おしいものだと知った。
“おかえり”って言葉がこんなに温かいものだと知った。
“愛してる”って言葉が──こんなにも胸を焦がすものだと俺は初めて知ったんだ。
「私もこの命を終えた後はあなたの、そばに──」
こんな俺のために、涙を流してくれる人。
“生きて欲しい”と願ってくれる。
あっちの世界に行ってからも共にいたいと望んでくれる女なんて、この世界にどれだけいるのだろう。
(ごめん──)
「それは、無理だな……」
お前は、天使のような人だから。
「俺は、きっと地獄行きだからさ」
お前みたいな善良な人間は天国に帰らないといけない。ただ悪魔のような男に騙されて、振り回された不幸で可哀想なお前は何も悪くない。
だからあっちの世界で、お前と俺が再会するのは難しいんじゃないかな。
「だから、生まれ変わったら──美香さんよりも先に俺に会いに来いよ。そしたら今度はさ、ちゃんと、はじめから……」
──そう、始めから。
俺が誰かを愛する前に。お前が誰かを愛する前に。
もう今世ではできないから。だから次は、ちゃんとやり直そう。
“どうしてもっと”なんて後悔しないように。
「あー、もう、だめかも」
身体が言うことを聞いてくれない。手には力が入らないし、呂律だって回らなくなってきた。
最期にちゃんと、抱きしめてやりたい。
死ぬ間際まで美緒を感じていたいと思った。
やっぱり悪魔のような俺だから、それが彼女にとって今後どれだけ重くのしかかるか。考えてもやれない男なのだ。
「最期に言ってくれよ、いつもの、やつ」
聞かせて欲しい。俺が笑って逝けるように。
「俺の、好きな顔で」
俺が笑ってそう言えば、美緒は何かを決意したかのように強い瞳で見つめる。そして涙でぐしゃぐしゃの顔のままにっこりと笑った。
「愛してます、洸さん。世界中の誰よりも」
ああ──最期にお前が俺の名前を呼んで笑ってくれたなら……もう、思い残すことなんてない。
俺がお前を見た瞬間、瞬間はいつでも笑顔に溢れていた気がする。
どうしてもっと、お前を愛してやれなかったんだろうと、ただ後悔が募る。
いつも幸せそうに俺を見る美緒は本当に、天使みたいだった。
「来い、美緒」
最期の力を振り絞って美緒に向かって腕を伸ばす。優しくその手を取って、彼女は嬉しそうに、悲しそうに俺に体を預けた。
「……洸さん」
ぎゅうっと俺の首に腕を回して抱きしめる美緒。その背中に手を添えて、残りわずかな力で抱きしめ返した。
(──ごめん、愛してた。ちゃんと、愛してたよ)
だけど今それを伝えたところで、もうそばにはいられない。彼女が苦しむのは目に見えている。
伝えたら、ますます俺から自由になれないだろう。そういう人なのだ、俺の奥さんは。
わかっている。彼女の幸せを願うなら言っちゃいけないってことは。
それでも見てみたかった。俺のこの言葉で、美緒はどんな顔をするのか。
(やっぱ俺、自己中だな)
最期くらいはお前に嘘はつきたくなかった。
「ごめん。俺も……愛してる」
ありがとな、俺を愛してくれて。
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