第59話


 バタバタと由良くんが出ていった足音に、洸さんが少しの反応を見せた。


「う……」

「洸さん!?」


 ゆっくりと開かれた目。それはいつもの半分しか開いていないけれど、私を認識するには十分だったようだ。


「み、お……?」

 掠れた声に涙が止まらなかった。私の方に伸ばしてきた手を握れば、洸さんの手には何かが握られていた。


「はい、私です!」

 彼が目を開けたことに少し安堵したけど、流れ出る血の量にまだ不安は拭いきれない。


「そっか……死ぬ前に、お前に逢えて、よかった……」

「何言ってるんですか!」


 そんな縁起でもないことを言わないで欲しい。どうか私を安心させて欲しいのに。


「自分の身体ぐらい、自分が一番わかってんだよ」


 こんな場面でも、彼は私の期待には応えてくれない。

 嫌だ嫌だと何度も首を振る私を見て、洸さんはふっと笑う。



 彼が右腕を持ち上げ、開いた手のひらを見て私はハッとした。


 きっと刺された現場は血が飛び散っていたリビングだろう。そこからこの寝室まで移動してきた理由が、これだったとしたら──。



 彼が握っていたのは、私が返した結婚指輪だった。血で染まっているけれど、洸さんの左手の薬指に前と変わらず着いているものと同じ。



「俺の、くそつまらねえ人生もさ。お前に愛されて、過ごしたことを考えたら……捨てたもんじゃねえなって……そう、思う」


 ぶわっと涙が溢れ出て止まらない。

(そんな遺言みたいな……これで最期みたいな言い方、お願いだからやめて……)



 彼の手を取って、そっと自分のお腹にあてる。

「ここに、洸さんの、子どもがいるんですよ……」


 私が意を決して伝えた言葉に、半分しか開いていない目が驚きで少し見開いた気がした。


「ま、じで?」


 それは予想外に喜びの混じった声だった。

 一緒に喜んでくれるのなら、もっと早く彼に伝えていればよかった。


“望まれない”なんて、何故思ってしまったのだろう。彼はこんなに優しく微笑んでくれたのに。


「こんな、ロクでもない俺でも父親になれたんだな……」


 震える声は涙を我慢しているのか。

 この人が愛おしくて、大切に仕舞い込んだ感情が溢れる。



「お前に似た女の子だったら……可愛いんだろーな」

 優しい手つきで私のお腹を撫でた。

 その目があまりにも優しくて、温かい。


「洸さんによく似た男の子だって、きっと素敵な人になります」


 そんな普通の夫婦の会話がこんなときにできるなんて、本当に私たちは不器用だ。


「あー、死にたく、なくなったな……」


 手で目元を隠すようにする洸さん。

 それならこのままここに留まっていてよ、と言うことができない。苦しくて声が詰まった。


「お前のこと、愛せないって言ったけど……今考えたらさ、俺のそばにいるのはお前だって……当たり前に思ってた。お前が隣で笑ってないと落ち着かない」


「俺は、お前が……うっ」


 言葉の途中で苦しむ洸さんに、何もしてあげられないことが悔しい。


「洸さん……洸さん!」


 そう、あなたが消えてしまわないように名前を呼ぶことしかできないのが悔しくてたまらない。



「お前は、いい女なんだから……俺にはもったいない嫁だったなって」


 ──私は良い女なんかじゃない。


 もしもあなたが良い嫁だと思ってくれたのなら、それは相手が──夫が洸さんだったから。


 あなたじゃなきゃ、すべてを投げ出す覚悟なんてできやしない。



 ──もうこの際なら誰でもいい。神様でも、お姉ちゃんでもいい。


 お願いだから、誰かこの血を止めて。

 お願いだから彼を連れて行かないで。

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