第56話


 ある昼下がり、自分のそばで仕事をする留美さんがことあるごとに顔を緩めているのに気付く。聞いて欲しいことは自分からペラペラと話す人だから、こちらから問いかけることはない。そこまで興味もなかった。


 しかし──。


 コンコンと控えめなノックの音に、留美さんが明るく返事をした。そして意気揚々と扉を開く。


「失礼、します……」


 聞き覚えのある声は、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。


「美緒……?」


 聞き間違いでも、見間違いでもない。

 目の前に現れたのは紛れもなく俺の“妻”だった。


 俺が何も言えずに驚いていると、留美さんが怪しく笑って歓迎した。

「いらっしゃい」


 その表情は全く動揺していなくて、この人が美緒を呼んだのだとすぐに分かった。

 美緒自身もどうして呼び出されたのか分かっていない様子だ。


「結婚指輪のことなんだけど。まだあなたが持ってるでしょう?返して欲しいの」


 そんな自分勝手な要求が俺を苛立たせる。

 少なくとも俺と美緒はまだ離婚していない。留美さんが介入する理由なんて一つもないはずだ。

 最近の留美さんの行動は目に余る。


「──はい」

 久しぶりに見た美緒はなんだか少し小さくなっている気がした。

(痩せたのか……)


 どうして、なんて聞けるほど馬鹿ではない。


 美緒が震える手で取り出した指輪を俺のデスクにコトリと置いた。その輝きは買った時のままで、とても丁寧に手入れしていたんだろうなと思う。

 その指輪を見つめて、寂しそうにする美緒を──“抱きしめたい”なんて、どうかしている。




「──洸さんは、ニンジンがあまり好きじゃないです」


 ずっと慎重に、余計なことはしないようにと身構えていた美緒が言葉を紡いだ。何の脈略もない会話に俺も留美さんも呆気にとられる。


「は?」

 怪訝そうな顔をする留美さんは綺麗な顔が歪んで見えた。


「カレーは甘口が好きで、おみそ汁は毎日作らないと拗ねちゃいます。週に一度はお肉料理を作ってあげてください。シャンプーやボディーソープはあまり拘らないけど、洗剤や柔軟剤は決まったものじゃないと落ち着かないんです。熱が出た時はおかゆよりもしっかりご飯を食べたほうが早く良くなりますから、お願いしますね。お風呂のお湯は少し熱めが好きです。あとは──」


「なんなの!あなた!?」


 俺の好み、俺の拘りを次から次へと述べていく彼女は決してマウントをとろうとか、嫌味たらしい意味で告げたわけではない。そんな人ではないことは、誰より俺が知っている。



「どうか、幸せにしてあげてください。私ができなかった分も。よろしく、お願いします」



 ……ああ、また。

 泣いてしまいそうになる。



「美緒……」


 俺はあいつの何を知っていたのだろう。

 美緒の誕生日どころか──あいつは何が得意で、どんな食べ物が好きで、雷以外は何が苦手なのか。


 どんなデートがしたかった?


 どんな趣味を持っていて、学生の頃はどんな部活に入っていて、幼い頃はどんな子どもだった?


 どんな恋愛をしてきた?友だち関係は?



(俺は──何も、知らない)

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