第55話




 留美さんは、美香さんと一緒で料理ができない。もしかしたらできるのかもしれないけど、“やりたくない”んだろう。たまに作ってくれるカレーのニンジンが大きくて食べられないと思った。


『ニンジンも食べてくださいよ?小さくしておきましたから』


 俺は子どもじゃないと、何度も言った。だけど本当は有り難かった。あいつの料理で“食べられない”なんて思ったことはなかった。



 派手に彩られたネイルが落ちてしまうから、洗い物も洗濯も嫌がる。家政婦を雇おうと煩いからそうしようと思っている。

 俺が生きてきた世界ではそれが当たり前だと思っている。でも俺は知らない人にプライベートな時間を覗かれたくないのが本音だった。


『私は、洸さんをこの手でお支えしたいんです』


 ああ、あいつの手は綺麗に手入れはされていなかった。少し荒れた手。でも、なんでだかそんな手が嫌いじゃなかった。その手に触れられるのは嫌いじゃなかったな。



 仕事から帰ってきても、もう慣れてしまったあの一言が聞けない。


『おかえりなさい、洸さん!』


 自分だって疲れてるだろうに、それを俺には見せない。鞄やらジャケットやらを全部受け取って片付ける母親みたいなあいつ。



 美香さんにそっくりな顔で、美香さんによく似た声で「愛してる」なんて囁かれたら嬉しいに決まってる。



(──でも)



『愛してます、洸さん』


 あいつのくれる愛の言葉はもっと胸が温かくなっていた。


 なんていうんだろう。



 こう、胸が──ぎゅって掴まれたみたいになって、でもそれは嫌じゃなくて。

 じわじわと温かいなにかが広がっていくみたいで。



“あー幸せだ”って──。



(ああ……そっか)



 俺、“幸せ”だったんだ。




(どうしてもっと……早く気付けなかったんだろう)







 美緒が出て行ってからしばらくして、本社での会議後に川島に呼びとめられた。


「俺は、あなたを許せません」


 ごもっともなことだった。俺だって自分自身が許せないのだから。


「あなたはいつか後悔する時が来る」



(おいおい、まじかよ)


 後悔なんてもう、数え切れないほどしている。



 どうしてもっとあいつを愛してやれなかったんだろう。


 どうしてもっと気持ちを伝えてやらなかったんだろう。


 どうしてもっと抱きしめてやらなかったんだろう。


 どうしてもっとあいつを見つめてやらなかったんだろう。



 どうしてもっと、あいつを──。




 そして俺はこの後聞いた川島からの言葉に──もっと、後悔することになった。




「美緒ちゃん、あなたと結婚した時に言ってたんだよ」



『洸さんの人生の中で、ただ辛いことなんてなければいい。一緒に幸せになろうなんて思ってない。洸さんが幸せなら、それでいい。私にできることなんて限られているから……洸さんが少しでも安らげるように帰りを待っていたいの』



「そう言って笑った美緒ちゃんの顔は、今でも忘れられないよ」


(……知ってるよ)

 一番近くで見ていた。自分よりも俺を優先させる人だった。俺のためなら何をしていてもキラキラと顔を綻ばせる。



『おかえりなさい、洸さん』



 美緒はいつも俺の幸せを──俺の望みを第一に考えてくれていた。

 もしも俺が望んだら、お前は俺のもとに帰ってきてくれるだろうか。


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