第54話


 美緒が俺のもとを去ってから、仕事に身が入らない。留美さんはひどく機嫌が良くて、俺は何も言っていないのに全てを知っているようだった。


 美緒から送られてきた離婚届──俺はそれに未だサインできずにいる。あいつが書いた欄には所々濡れた後のような、多分涙の跡が残っていて。どうしようもなく、破り捨てたくなる。

 会社の奴にもまだ離婚のことは言っていない。まだ正式に成立したわけじゃないから、と言い聞かせていた。

 なんで俺はこんなにしがみついているんだろう。まるで“離婚したくない”みたいだった。




 美緒が美香さんの代わりなら、別に美緒じゃなくてもいい。美香さんに似た留美さんの方が、ずっと適役のはずだ。


 だけど、なんでだ?なんで留美さんじゃ、こうもときめかない?こんなにも落ち着かないんだ。


 俺が美緒にときめくのは、美香さんに似ているからで、あいつを見ると安心するのは美香さんが帰ってきたみたいだからで──。



 そう、思っていた。


 でも、いざ留美さんのそばにいて分かる。

 彼女にときめかないのはあいつじゃないからで、ソワソワしてしまうのは美緒の笑顔がないからだ。





 留美さんの誕生日に、彼女に誘われた。ダメだと思っていながら、試してみたかったのだ。美香さんとの違いを。そして美緒との違いを実感して、自分の中の曖昧な思いをはっきりさせたかった。


 部屋に連れ込んだ彼女を抱きながら、何度も美香さんを呼ぶ。それは美緒といた時と何ら変わりない。留美さんだってそれを承知で俺のそばにいる。



「み、お……」

 その癖に、あいつを抱いていた時は一度も呼んでやらなかった名前を呼んでいるのか、俺は。


 結局この気持ちがなんなのかわからなくて、鉢合わせしてしまった美緒に八つ当たりをした。



 しかもそれがあいつの誕生日の前日だったなんて。知ろうとすれば、知れたはずだ。でも美緒は美香さんの代わりだから、そんなこと知らなくてもいいはず。


 でも知らなかった自分自身に苛立って。ごちゃごちゃな頭の中。物事をまとめたり整理したりするのは得意なはずなのに……この気持ちがなんなのか分からない。




 美緒が最後のお願いだと言った時、どうしようかと思った。ぐっと心臓を握られたような苦しみが襲ってきて焦る。


 そうじゃなくても、最後だからと思えばあいつと過ごした何もかもが惜しくなって、ぐっと泣いてしまいそうになった。一年も過ごしてきたんだ、愛着だって出てきたんだと簡単に考えていた。



 でも、“最後のお願い”が終われば、すやすやと自分の腕の中で眠る美緒を見てなんだか満たされた気がした。今まで一度だって満たされなかった心。


 初めて“美香さんの代わり”じゃなくて“美緒”を抱いて──「手放したくない」と思ってしまった。


 それでもその一瞬のために、手に入りそうな瑠美美香さんを投げ出してしまうほど俺は吹っ切れた訳じゃなくて。


 馬鹿だった。殴りたいほどに。


(どうしてもっと、あいつを……)

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