第41話



「──美緒ちゃん」

 息を切らして、鼓動を速くして、私のためにここまで急いでくれるたった一人の存在。


「電話の声、震えてた、から」

 洸さんは私が泣いていても平気だけれど、由良くんはそうではない。

 洸さんは私が傷ついたって何とも思わないけれど、由良くんはそうではない。



「洸さんがね、留美さんとベッドで……うちの、いつも夫婦で寝てる場所で──」

 私は言葉に詰まりながら、必死で説明する。自分で改めて口にすると、笑ってしまうほど残酷な状況だと思った。

 最後まで言わなくても目の前の彼には伝わったようだ。

「もう言わなくていい」

 私の口をその温かな手のひらで塞いで止めてくれた。


「もうあのベッドで寝るのは、結構しんどいねえ」

 強がってへらっと笑ってみたけど、ぽろりと落ちた涙は隠せなかった。

 由良くんは今の私よりもずっと辛そうな顔をする。

「なんで……」

 苛立ったような由良くんの声。それは洸さんに対してなのか、いつまでも学習しない私に対してなのかは分からない。腹立たしさを抑え込むように、大きく息を吸っては吐いている。


「また我慢するの?平気な振りして、何もなかったようにするの?」

 そう問いかけられたらぐうの音も出ない。目を伏せたところで由良くんの真っ直ぐな視線からは逃れられなかった。

「もう、むりだよね、きっと」

 自分に言い聞かせるように諦めの言葉を発してみても、心はそう簡単に納得はしない。物分かり良く痛む胸を治してはくれない。

「私、もう必要なくなっちゃった……」

 被害者ぶって笑っていないと泣き喚いてしまいそうだった。

 たとえ涙が抑えられなくても、声が震えていても、笑顔を取り繕うことに集中していれば、まだ立っていられた。


「洸さん、優しいもん。私が解放してあげなきゃ」

 そう善人ぶってみても、ただ自分が哀れなだけだっていうのは分かっている。でも由良くんにはこれ以上惨めな私を見せたくはなかった。好意を抱いてくれている相手に、泣き喚いて縋るような姿は見せたくない。女である私に残っていた小さなプライドだった。



「──そうじゃないよ」

「え?」

 由良くんは酷く悲しそうに笑う。頬を伝う雫は私と同じ場所から流れている。

(どうして……由良くんが泣くんだろう)

 私と洸さんの仲が壊れていくのを喜べば良いのに。そのほうが彼にとっては都合が良いはずだ。

(優しいひとだ、本当に)

 これが“愛情”なら、私はどうして受け取れないのだろう。

 この優しさを受け入れて甘えてしまえば幸せになれるのに、それができないことがこんなにも苦しい。


「そうじゃなくて。あんな最低な男、願い下げ!って捨ててやらなきゃ」

 首を傾けて私の顔を覗きこんだその人は、いつだって私を救ってくれる。

「美緒ちゃんは何も悪いことはしていないよ」と言ってくれているようだった。私はこの世界に必要だと、この人なら思ってくれる。


「そうだね」

 へへっと笑って見せると、由良くんはそっと私の頭を撫でた。“愛おしい人を見る目”──そんな言葉がぴったりだ。

(私は愛されている)

 そう思うのに、一歩が踏み出せない。

 こんなに温かい場所があるのに、私はいつまでも茨の道を進もうとする。


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