第40話


 これまで過ごしてきた日々は──私たちの夫婦としての時間は、全てお姉ちゃんの代わりだった。

 私ではなく、お姉ちゃんに向かって

「ただいま」と言って

「いってきます」と言って

 ご飯を「おいしい」と褒めて


 私ではなく、お姉ちゃんに向けて笑って、甘えて、抱きしめて、キスしていた。

 言葉の通り、“お姉ちゃんの代わり”だった。


“お前のこと、愛せるように頑張ってみるわ”

 あの言葉は私に都合の良い夢だったのかもしれない。


(ああ……忘れてた)


 あまりに彼との空間が心地よくて、本当の夫婦になれたような錯覚に陥っていたのだ。

 ──なんて、馬鹿で滑稽な女。


「おい、美緒?」


 あんなにも愛おしかった彼が呼ぶ私の名前ですらも、今は「美香」という名に重なって聞こえてくる。


 私を抱く時だけ呼ぶ、その名前。だからかもしれない。

 彼が私をお姉ちゃんの代わりとしていたのも体を重ねるときだけだと思っていた。


 留美さんという代わりが見つかったから──私は用無しなのだろうか。

 もう“いらない”ってことだろうか。





「今日はホテルに泊まらせてください。頭を冷やしてきます。ごめんなさい、明日にはもうこんな面倒な妻じゃなくて、いつもの私に戻りますから……だから、今日だけは、許してください……」


 愛しているよ、洸さん。


 あんなに伝えても伝えきれなかった私の想いは今はどうしても言う気になれなかった。愛しているのはこれからも変わることはないだろう。でも、今だけは──あなたの隣にいても“幸せだ”と思えないから。





 半ば逃げるようにしてあの場を去った私。洸さんの返事も聞かずに飛び出したのをうっすらと思い出す。

 あてもなく歩いていると電話を知らせる通知音がした。あんな目に遭っても期待を込めて表示されたその相手を見てしまうから、とことん馬鹿なんだと思う。


『美緒ちゃん?』


 スマホの向こうから聞こえる優しい声に短く息が漏れた。

「由良くん……」

 さっき洸さんに呼ばれた時はひどく嫌気がさしたのに、由良くんが呼んでくれる私の名前は浄化されていくようで全く違ったものに聞こえた。


『今、どこ?』

 ここまできたら、どこかで私のことを見てるんじゃないかというくらいタイミングが良すぎる。まるで少女漫画のヒーローだ。

 由良くんがヒーローなら、私はヒロインになれたのだろうか。誰かの引き立て役でも、脇役でもない──誰かのたった一人の“特別な人”になれる人生だったのだろうか。


「会社の、近くの公園……」

 それだけを聞くとすぐに通話を切られた。

 私が期待する行動は、いつも由良くんが叶えてくれる。



 私が何も考えずにやってきたこの公園は春には桜が咲いて、お昼にお弁当を食べるにはもってこいの場所だ。由良くんとも何度も来たことがある。いつか、洸さんにも知らせたいと思っていたのに。一緒にお花見でもできたらいいなと。そんな小さな夢でさえ、今は儚く消えていく。


「洸さん……」


 その瞬間、腕をひかれて温かな体温に包まれる。

 今まで我慢してきた涙が頬に流れる感覚がした──。




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