第39話


 半ば走るように帰ってきたから、息は荒いし手は震えている。胸が苦しくてぎゅっと押さえてみるけれど、乾いた笑いしか出てこなかった。


 艶やかな高い声が、彼の名前を呼ぶ。


 私は靴を脱いで一歩、足を進めた。


 私の冷めた心とは正反対の甘ったるい空気。


 荒い息遣いは私だけじゃなかった。


 途切れ途切れに聞こえたのは姉の名前。


 体を重ねる時にだけ、彼は切なく絞り出したような声で呟くのだ。



 私には「声を出すな」と言ったけれど、きっと留美さんには言っていないのだろう。だって耳を塞いでも聞こえてくるくらい、私たち夫婦だけのものだった、この空間に響いているのだから。

 留美さんは声もお姉ちゃんにそっくりだから「似ていないから」という理由で声を出すことを禁じられた私とは違う。

 留美さんの快感に溺れる声が耳だけではなく、心臓を何度も何度も貫く。


(気持ち悪い……)

 臓器が落下していくような吐き気が襲ってくる。それでも、これ以上悪いことなんて起こらないはずだった。


「あいし、てる……」


 洸さんの口から初めて聞いた愛の言葉。

 私が焦がれて止まなかった、その言葉。


 それを聞くのは、お姉ちゃんだけだと思っていた。


(私だけ、もらえないのか)


 留美さんにだって言えるのなら、私にも言ってくれたらよかったのに。

 嘘でも、代わりでも、嬉しかったのに。


 ずるりと私の手からスーパーの袋が落ちる。派手に音を立てたから、きっと二人にも聞こえていると思う。それは理解しているけれど、不思議と焦りは湧き出てこない。ここから一刻も早く逃げたいはずなのに、身体が言うことを聞いてくれないせいもあるのだろう。



 しばらくして二人は何事もなかったかのように私の前に姿を現した。

(あれ、私って……なんでここにいるんだっけ)


「私たちは愛し合ってるんだから仕方ないでしょ?」

 ごめんね、なんて思ってもいないくせにただ立ちすくむ私に向けて嘲笑う彼女。


「あなたたち夫婦の間に、愛はないんだから」

 そう言い捨てて私たちの部屋を出ていった。



 カツカツと鳴るヒールの音が聞こえなくなった頃、やっと軽く息ができた。洸さんは壁に寄りかかって腕を組んだまま私をじっと見つめる。私はどうすることが正解だろう。何事もなかったかのように、晩御飯を作ればいいのだろうか。


「文句があるなら、言えば?」


 少しくらい、焦って欲しかった。

 言い訳のひとつくらいして欲しかった。


 この人は私が傷つかないとでも思っているのだろうか。

 彼の前では涙なんてほとんど見せたことがないから、私が泣かないとでも思っているのか。



「私は、家政婦じゃありませんよ……」

 震える喉から発した声は掠れている。

「私はあなたの何なんですか……?」


「奥さんだ」って「俺の嫁だ」って、言ってくれたら私は救われた。

 あなたの前でも笑える気がした。


「大事な」なんてつけなくていい。

「愛する」なんて期待もしていない。


「ただの」嫁でいいから。


 私が自分のものだって、自分は私のものだって──そう、言ってくれさえしたら、私はまだまだ頑張れるはずだった。


「何言ってんだよ。お前自分で始めに言ってただろうが。『お姉ちゃんの代わりでいい』って」


 ガツンとした衝撃が、頭と心に響く。

(聞くんじゃなかったなあ……)

「家政婦だ」って言われる方がまだマシだったかもしれない。

 結局、洸さんは“私”を愛することはできなかったのだ。


「それが、あなたの答えですね?」

 吐息と一緒に吐き出された言葉は彼に届いていたかどうか分からない。














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