第38話


 副社長室の前で深呼吸をする。この間の記憶がチラついてしまったが、頭を振ってそれを追い出しノックしようと拳を前に出した──その手を、止めた。



 扉の向こうから聞こえてきた声が、私の心を酷く抉ったから。

 たった一言。ほんのそれだけ。



「留美さん、誕生日おめでとう」


(今日が、留美さんの誕生日……?)


「これ、くれるの?ありがとう……!」

 洸さんは彼女に何かを手渡した。それは留美さんの言葉で容易に分かることだ。

 そしてそれが何を意味するのかも……分からないほど私は馬鹿ではない。


(頼さんが言っていたのって……明日の私の誕生日のためじゃなく、留美さんのためのもの……?)


 一気に体温が下がったような、そんな感覚だった。今まで感じたことのない、吐き気と動悸。


(……そんなの、わかんないでしょ。明日、もっと素敵なプレゼントが待ってるかもしれないよ)


 自分で自分を慰める。言い聞かせて自分を保とうとする。必死だった。


 それでも心の奥ではわかっていたはずだ。疑問がぐるぐると頭の中を支配する。

(洸さんって、私に誕生日聞いてきたことなんてあったっけ?)


 好きでも、嫌いでもない──きっと旦那様は私に“興味がない”。そんな辛い現実が突きつけられているようで苦しい。


(……ああ、痛い)


 廊下の壁に背をつけて、ずるずると座り込む。抱えた膝に顔を埋めて、ドンドンと心臓がある左胸を自分の拳で強く叩いた。


 ──少しでも、この痛みが和らぐように。









 どうやって自分のオフィスに戻ってきたのか、記憶はない。きっと逃げ出すように電車で帰ってきたはずだ。先に帰ってきてしまった私に由良くんは心配と疑問をぶつけたけれど、曖昧に返事をしてただ謝ることしかできなかった。


 ポッカリと空いた穴を埋めるように、定時を過ぎても黙々と仕事をこなした。何も考えたくなくて我武者羅に進めていたけれど、ふと時計を見ればもう洸さんが帰ってきているはずの時間だった。慌てて資料を片付けてパソコンをシャットダウンすると帰路へとついた。



 冷蔵庫にはあまり食材がなかったはずだと思い、大急ぎでスーパーに寄って買い物をする。旦那様がお腹を空かせて待っているかもしれない。

(早く夕食を作らないと)

 ただ、その一心で帰り道を急ぐ。晩御飯のことを考えていれば、昼間のことを少しでも考えなくて済んだ。



 息を切らしながら玄関の扉を開ければ案の定、洸さんの靴があった。


 でも──その隣に丁寧に並んだハイヒールは、私のものじゃない。

 その真っ赤な色は、私ではなくてお姉ちゃんに似合うものだ。


 それが誰のものかなんて、分かりたくなくても分かってしまった。



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