第37話




 ──いつだって、それは突然だった。


 平凡な毎日は退屈かもしれないけれど、今となってはその平穏さえ羨ましく思う。誰かを思って泣いたり苦しんだりしたのは私にとって初めての経験だ。誰かを想って笑ったり恋しがったり幸せな気持ちになるのだって初めてだった。


 それは他でもない、あなたがいてくれたから。



 たとえ世界が明日滅びてしまうとしても、あなたといられるならそれすら喜ばしいことになってしまう。だって死んでしまうその時まで、あなたの姿をこの目に焼きつけられるならこんな幸せなことはないんだよ。


 だから今となっては、あの幸せな時のまま、世界が滅亡してくれていたらなんて思ってしまう。





 感極まって泣いてしまいそうなくらいの頼さんからの朗報に、私は一週間後が待ち遠しくてたまらなかった。


 洸さんを見つめる目が無意識のうちにキラキラと輝いていたようで、彼から何度も訝しげな目線を送られた。思い出し笑いを何度もしては眠りにつく。朝起きても気だるさなんて感じず鼻歌交じりに朝食の準備をして、仕事だって今までで一番捗っていたように思うから単純すぎてまた笑ったりもした。



 それもこれも、ただ“幸せ”だったから。

 ──今日、この日までは。








 朝、寝起きの悪い彼も珍しくご機嫌で不思議に思ったけれど、明日の誕生日が迫っているから私自身もすこぶる機嫌が良くて気になんてしていなかった。

「いってらっしゃい、洸さん」

 愛してます、といつもの言葉を投げかけたら──ほんの少し、私にしか分からないような微妙な変化だったけど──表情を歪めたのが分かった。それはまるで、罪悪感に駆られたかのような顔に見えた。

「……いってくる」

 彼の僅かな変化に思わず振っていた手を止めたけれど、返ってきた声に慌てて再び動かした。にっこり笑ってみたものの、ズキッと痛む心臓には「大丈夫、大丈夫」って独り呟く。


(大丈夫、大丈夫。明日はきっと世界で一番幸せだから)




 いつもの時間に出社すれば、すぐに課長に声を掛けられる。

「今日、広瀬さんの旦那さんのところに渡す資料……山下さんが持って行く予定だったんだけど、体調不良で休んでるんだ。代わりに持って行ってくれないか?」

 申し訳なさそうにお願いされたら断れるはずがない。むしろ「喜んで!」と言ってしまいそうになるのを堪えた。

「はい、わかりました」

 また彼に会う口実ができて、嬉しくて顔が緩む。単純な女だとは自負している。


 なんだか最近はいいことが多い気がする。明さんのことがあってどん底だった気分もずっとマシになっていた。



 素早い手つきで外へ出る準備をすれば、由良くんがやってきて私の浮き足立った様子に笑っていた。

「一緒に行こう。俺も用事があるから」

 彼と一緒に行けば車も運転してくれる。運転があまり得意ではない私にとって、それはとても有難いことだから二つ返事で了承した。



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